(毎月発行の『連絡紙』より)


●平成22年10月号

 二十三歳の女性が二人の子供の養育をしないで餓死させると言う悲惨な事件がおきた。
  風俗店従業員という彼女は、はっきり言えば売春で金を稼いでいた。子の為に体を売って糊口をしのいでいた、というのは昔の話だ。彼女は売春をしてホストクラブに通い、それが楽しかったから養育を放棄したと言うのだ。彼女にとっては楽しければ生活のあり方など何でも良いのだった。
  同じマンションに住む人達は児童相談所に連絡し、児童相談所では五回ほどかかわりをもったが、事件を防ぐことはできなかった。『法律の壁があるから』というがそれは役人の保身でしかない。役人が保身を第一にするならば、行政は機能しなくなる。役人に望むのは法律の厳格なる遵守ではなく、法律の趣旨の厳格な理解なのだ。今回の場合だって法律の遵守で終わらせないためには、上司が責任を取る態度がなければならなかった。「オレが責任を取るからヤレ」と言える人は役人では皆無なのだろうか。
  一般に無能な上司ほど法律を厳格に遵守してその趣旨などは理解しようとしない。そのために自分の在任中が無事であることを願って止まない。だが上司とは本来その覚悟がなければ就任を拒否すべき立場なのだ。生活の為に就任した、という自己中心では行政が上手く機能しない。
 
それはさて、一番哀しかったのは、子の養育よりも自分の楽しさを優先できた彼女の心だ。彼女は恐らく楽しい楽しくない以外、何も考えていなかったのだろう。面倒なことをしないで済ませられる事が不思議なのだが、現実に不得手なことをやらないで過ごしてしまえる人も多いのだ。得意なこと興味あることでも、面倒であるならばそれを行おうとしない。行おうとしない事に罪悪感とか敗北感とかを感じないのだろうか。そこを割り切れることが筆者にはふしぎなのだ。
 人間は神から授けられた能力を磨くしか充実させて生きる方法がないだから人は皆個性的にしか生きられない。個性的にしか生きられないのだが、能力がなくても人並みまではできるように努力と言う本能を授けてもいる。能力がないのに人の上を行くことは不可能だ。が、人並みまでやれない人は努力不足なのだ。
  一般に言えることだが、自分で考えようとしない人は言われたことを行うしかない。だがそういう人は言われたことの半分も正確にできない。自分で考えている人は言われたことの先までできる。歳の甲という言葉があるが、物事をどこまで深く考えられるかということは歳の甲ではない。考えるのではないから行動の判断基準が楽しいか楽しくないかに限られてしまう。そして楽しくないものはやらないで済ます。だから学べない、学べないから益々できなくなる。
 今回の事件に限らずだが、母性の喪失とか父権の弱体化とか言われ出し、喪失・弱体の現象が起きて久しいのだ。最近は自分の生きることまでが煩わしくなっているようだ。無差別大量殺人などはそんな心理から生まれている。
  学ぶということがこの国になくなりつつある。幸せになりたい病が蔓延していつしか学ぶことを忘れだした。知は痛みであり、だから学ぶとは煩わしいことなのにその煩わしさを不幸と思い違いする。だが現実は煩わしいから考えさせられるのだ。煩わしさの中にいなければ学べない。何を学ぶのかと言えば、それは最終的には原理原則となる。原理原則こそその人個人を自ら救い、自ら安心させる。親がそんな原理原則を持ちそれにこだわっていなければ、子供が原理原則の存在に気づける訳がない。
  親が幸せになりたくて、もっと言えば煩わしい事をしたくなくて、楽な事だけしか求めない。親が学ぼうとしないのだから子供に理想を求めても意味がない。学べない人に限って「どうせ駄目だから」と自分に言い訳してすます。そこだ、自分を学ばせることは永遠に自己責任で行われるものなのだ。なのに、言い訳で割り切ってしまう。自己責任とは会社の環境の良さや連れ合いの理解の深さではなく、全ての不自由な現実を当たり前と理解できる自分に変わることから始まるのだ。原理原則に出会うまで煩わしさを粘る、ただそれだけなのに。


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