(毎月発行の『連絡紙』より)


●平成22年11月号
 教会が支援している介護施設に新しく特別養護老人ホームとショートステイがスタートした。この内、特別養護老人ホームは入所希望者が多く、オープン前から煩雑を極めていた。新しく行うと色々なことが見えてくるものだが、見えてくるその多くは、やはり哀しいことだ。
 
特別養護老人ホームはグループホーム同様に、所在する阿賀野市の認可事業だ。認可事業と言うことは市の代わりにやる、ということだ。市の代わりにやるということは、市が出来ないものをやるのだから逆に市がやる以上にやりやすい体制を支援せねばならないという意味だ。だが例えば入居待機者の数字からしていい加減で、これだけの数字があるから空室など出るわけがないと宣う。これでグループホームの開設の時はやられた。ウチだけでなく市内のグループホーム全てが傾いた。それを克服するために啓蒙しろと申し入れたら、それは市ではなく事業所で行うものだと言い切った。情けない、認可したら締め付けをして責任を取らない認可事業というものが立派に存在したのだ阿賀野市に限らないのだが、規制してきてやりにくい事この上ない。市が認可してやっている、という情けない了見ばかりが目立つ。考え違いも甚だしい。市と施設が協力するなどと言うのは嘘で、市の担当職員の目線に合わせて動かされてしまう。もっと明確に言えば、担当者の保身のために規制ばかりをしてくる。それが一般に言う認可事業なのだから行政はタチが悪い。
 
それはさて、今度は入所希望の人の話である。「親類で入所を申し込んだのだから、優先して入所させて」と言う人が多くいた。足を運んで頼みに来るならまだしもそうされて頼まれても実際に困るのだが…)だ。入所に当たっては公平を期すために入所判定会議が設けられ、そこではポイント制で入所の必要度が審査される。しかも市が関与するから個人では動かせない、と伝える。入所が決まったかダメだったかの連絡くらいしか私は出来ないのだ、と返答する。
  だが、その段階で筆者は鼻白らんでしまう。電話で、普段付き合いをしていないのに親類だ・客だと言って頼めるその心臓の強さに、だ。たった一人だけ、足を運んで家庭事情を話しされて行った人がおられた。その方のご家族は幸いに入所できた。入所が決まったからと、改めて報告に出向いてこられた。快かった。
  大事な事を序()いでに頼んでしまえる価値観が判らない。「こんな時ばかり親類(友人)づらして申し訳ないが、お願いに上がりました」が正解だろう。それを序いでに、しかも電話で済ます…『あんたの言い分だけしかないよ。そりゃ、あんたは楽でいいだろうけど、こっちの立場はどう認めてくれるの…。お互い様という見方ができないなら付き合いたくないなあ』が本音だ。
 
頼むとはそういうことだ。頼みごとをする相手の立場を最大限理解して、その上で自分の立場を伝え理解してもらって動いてもらう…頼む側はあくまで従なのだ。何より切ないのは入所させたい人の人格が序いでになってしまうことだ。犬や猫の子を貰うにも序いでじゃ済まない。なのに、序いでに頼んでなんとも思わない。だから頼まれてしまう家族の存在価値も序いでになってしまう。自分の思いを優先して相手のことを考えないのは、保身を最優先している自分に気づかない公務員も同様だ。それがどれほど社会の風通しを悪くしているか、いやはっきり言えば犯罪である事を保身に走る人や公務員は判っていない。
 
便利・楽であれば良い、便利・楽の前には筋道すらも省略すればよい…そんな自分を恥ずかしいと思わない。率直に言ってそれは恥じではなくおぞましいのだ。
そんな自分が見えていない。見えていないからおぞましいことが出来る。いや、自分を見ようとしないから、おぞましくなるのだ。
 
滝では自分を見つめよ、と言う。ありのままの自分を感じ取って、それを自分と認めねばならない。認めた時、それがおぞましさに満ちている事が判る。人間の個性の核はおぞましさだからそれは仕方ない。だが人間は社会的な存在でもあるから嫌でも周りの大勢の人の為に動かねばならない。おぞましいが人の為になろうと努力する…それが出来てこそ人間なのだ。


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