(毎月発行の『連絡紙』より)


●平成22年1月号
  昨秋、衆議院総選挙が行われ、民主党が大躍進し政権交代した。良くやっていると思うが、この記事が掲載される新年の頃には与党民主党への風当たりが強まっている事だろう。
  それにしても政権交代かどうかという事のみが争われる選挙があってよいものか、疑問だった。それは、交代せねば果たせない政策があってこそ政権交代がなるものだからだ。結果としてなるはずの政権交代が目的になる選挙などありえないはずなのに「あり」だった。自民党の情けなさに愛想が尽きたから、という情緒の問題が政権交代という一大ブームになったにすぎなかった。
 歴史的変化とは言うがそれはマスコミの訴え方であって、革命を国民が心から希望して起きた歴史的変化ではない。それを歴史的変化と言って取り上げるマスコミは情けない。歴史的であろうがあるまいが、情緒の次元で結果が導かれるという姿は深く物事を考えない事の証明であるようで恥ずかしい事のように思える。
 物事は深く考える事が正しいのではない。簡単に物事の真髄に至れるのが一番正しいのだが、それにしても考え不足の人が多くなったのではないだろうかと思ってしまう。 「べき」を普段から考えていないとそうなる。とは言え、考えるという事は難儀な事なのだ。そして煩わしい事でもある。だが、だからこそ考える難儀さ煩わしさに慣れなければならないのだ。少なくとも、考えねばならない事とその痛みを意識し続けていなければならない。
 なのにそれを難儀からとか煩わしいからとか言って、考える事をしなくなっている。それもそのはずで、楽な事が幸せ、という価値観(これは正式には価値観と呼べるものではなく、惰性というべきものだが
)が社会にはびこっているからだ。楽な事は幸せなのではなく、単に楽でしかないのだ。だから生きる範囲が狭くなり、だから逞しさが失われてひ弱になって行くのだ。ストレス疾患とかいうが、それは社会生活の最低基準の設定が間違っているからだ。事実、ストレスはあってこそ個人はその可能性を伸ばすものなのに、ストレスが人間の敵にされている。それだけ楽イコール幸せの考え方に汚染されてひ弱になっているのだ。
 難儀でも煩わしくても考えねばならず、考えた事は自分を強制してもやらねばならないものなのだ。何をどう考えるかは最終的に安心を得さえすればよいのであって、それには普段から考えるという事を積み重ねてゆくしかない。秘訣とかコツというものは存在しない。積み重ねのない人は、指示を待って動くが指示を受けても意味がわからない。積み重ねがないから何の想像も何の拡大もできないのだ。つまり考えない人はどんなに具体的に言われても判かりようがなくなってしまうのだ。
 修行は没我である、と筆者は言う。無我と没我は違う。無我では修行にならない。無我は精神の大事な境地ではあるが、これは修行中の一瞬の境地であって修行に臨むときの境地ではないのである。没我とは元々我があるから言えることであって、自分の拘りがなかったら忘我など必要がない。素直な事は大事だが、本来の素直とは一旦自分の拘りを捨てて目の前の事を全力で行うという事であって、問題意識もなくただ漠然と従う事を言うのではない。
  拘りや問題意識がなければ痛みを感じない。痛くない生活をしても何も意味を持たない。痛みの無い生活を幸せと多くの人は言うが、ただ便利安楽なだけで生きてなどいない。
  人間は考える葦とパスカルは言ったが、考える事は痛みである。知は痛みだからだ。つまり人間は痛む存在なのだ。痛みがあるから身につくし、身につくから想像できるし応用が利く。痛みを避けていると何も学べない。知らない事は恥ではないが知ろうとしない事は絶対なる恥である。またどんなに法律を守り倫理的であっても、考えようとしないのは絶対的な悪である。多くの犯罪は考えず楽しさの延長で起こされる、ただそれだけなのだ。私達の多くは幸いに犯罪を起していないが、考えても拘わらないとするならそれは犯罪者と同じと言えるのだ。

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