(毎月発行の『連絡紙』より)


●平成22年2月号
 筆者が毎年七五三の神事に行く保育園での事だった。子育て支援という国の施策によってか、その保育園では乳幼児が増え、それを看る保母達も増えた。職員が増えて保育園がにぎやかになり、活発になっていると思った。ところが活発は活発なのだが、何やら例年と雰囲気が違って感じられた。職員には自発的に行動する雰囲気が無かった。仕事だと割り切った投げやりな雰囲気が強かったのである。神事を終えて園長に「今年の園は何か変ですね。職員の働く意欲が感じられなかったのですが」と問うた。「その通り。低級な職員が他の職員を低下させてます」と園長。
  そういえば平成二一年の年末も「派遣切り」という言葉が流行した。いや、言葉だけでなく実際に派遣という雇用形態で働く人々の多くがクビとなって路頭に迷った、とされた。というよりニュースではそういうことになっていた。クビにする側が悪者のように報道されていた。確かに会社の都合が悪くなると一方的にクビにしていた。だが彼らは派遣社員であって、正規の社員ではない。会社に不都合が生じたら真っ先に雇用を解いて構わないそういうことを承知しての雇用契約だった。だから厳しく言えば、いつ何時解雇されてもよい様に、割り高な給与を貰っていた。クビになって路頭に迷った彼らは悲劇的に扱われたが、急にクビになっても路頭に迷わぬ生活を営んでねばならなかったはずだ。これは派遣社員だけでなく働く以上誰でも覚悟しておかねばならない事だ。自分の思い通りでないなら社会参加しないという生活の結果が派遣だった。
  社会に出るとは経済的な自立と知的な自立(自分しかできないこと)を見据え育んで行くことであるだから正規社員より割り高の給与を貰っているくせに路頭に迷ってしまった派遣社員がマスコミから「間抜け」呼ばわりされても仕方なかったはずだ。だがそうでなかった。世の中は謎の優しさに満ちてしまった。それは無意味な優しさであるのだが…。
  それと同じでこの保育園の新しい職員達からは前向きで自立した労働意欲を感じなかった。決め付けた言い方で悪いが、派遣社員と同じように「金さえ貰えれば」とか「金を貰うためには多少のことは辛抱する」と思っているようだった。それは甘い労働意欲であり、自分に甘く自分本位・我侭の結果なのであった。
 「でも園長、新しい職員達は我々の世代の子供達なんですよ。親の労働観の鏡なんですよ」と筆者。「金のために働くと言って矛盾を感じない親も多いからね」と園長。そうなのだ、たとえば派遣社員を非難し、その間違いを指摘できる親は何人いるのだろうか。働きを通して社会貢献できる喜びとかやり通す充実感とか、目標をクリアーする達成感とかを味わった親はどれ程いるだろう。更にあの難儀さは一回で良い、としてその時の価値観にこだわって働い着続けて来た人はどれ程いるのだろうか。高度成長時代では仕方なくでも働けたしこだわりを持たないでも「金を稼ぐ」で働く意味を集約できたのだ。
  親が子に自らの生き方を伝えられない事は悲惨と気づこう。自らの生き方とはハートであり価値観であり生き様であって、要するに青臭い事である。社会では青臭い人を「若い・青い」と呼んで蔑み、自ら仕方なく働く人をして「大人」と呼んできた。しかし目標を持つ人が仕方なく働く事こそが「大人」なのであって、目標や夢へのこだわりを捨てた人が仕方なく働くと言うのは間違いである。目標が無い人・目標を見出そうとしない人に限って、それを周りのせいにし、お金や家族などのために働くと言って恥じない。筆者が「家庭を大事にする男は生き方が卑怯だ」というのはここに理由がある。回りのせいにできるのは目標に向かって戦っている人のみの特権で、それはまた克服するための目標であるから周りのせいにしても意味の無いこともわかっている。目標や夢にこだわることを止めた無気力な「大人」の親から無気力で都合よい行動しかできない子供が育ってきている…これは確かだ。派遣社員は、派遣社員ではない親が派遣の態度で生きてきた結果なのだ。子は親からしか学べない。

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