(毎月発行の『連絡紙』より)


●平成22年8月号

 丹後半島へ歴史の旅に行ってきた。今回の歴史の旅は凄かった。さすが京都は違う、と馬鹿にする意味で思った。嘘だらけであった。嘘も三日言ったら真実になるのが日本の歴史だなあ、と以前から思っていたがそれにしても凄かった。人間は落ち目になった時に嘘をつくのか上昇機運になった時に嘘をつくのか判らぬが、歴史のある街とはそういう嘘だらけのものなのだと改めて思った。
  アフリカで誕生したヒトという猿の新種がはるばる日本列島へ(当時は列島ではなく陸続きだったが)至ったのだから、九州・山陰・北陸からヒトは住み着き出したのは自然の流れだった。太平洋を渡ってアメリカ側から渡って来たヒトが居ないとも限らないが、それはきわめて少数だ。何より日本海が生まれて、我が国が正に列島になってしまってからは朝鮮海峡を渡ることが殆どだったはずだ。したがって文明もそっちの方向から入ってきた。
  ところが、こういったことすら具体的に考え、実証しないで判った事にするのが学校の歴史教育だ。要するに暗記すれば足りる事が歴史教育だから事件の評価なども一方的だった。
  歴史に限らず学校教育では約束事を教える。科学の授業で実験しているにもかかわらず、結論はこうだ、と提示しそれを疑わせようとはしない。
丸暗記した約束事に疑問を呈しない生き方は自分もまわりも辛い。その辛さを言いたいのだ。今回のように嘘の現場に足を向けて、それが少なくともクサいと匂いを嗅げる生き方を普段からしていなければならないのだ。なのに約束事の丸暗記に慣らされているから、覚えて終わりにしてしまう。
  丸暗記は押し付けのルールを自分に作る。
ルールは破られる為にある。但し破るには明確な理由があらねばならない。その多くの場合は合理性であるが時として自分の個性を確信してルール破りをする場合もある。いずれにしろルールは破られるために存在するが、善人になろうとしたりルールに疑問を思わない人は、その分ルールを厳格に守れる。要するに無関心な人ほどルールを守れる。無関心なヒトは見た目には誠実に映るが、実はそれほどいい加減なヒトもいない。だからルールを厳格に守ると同じに気分でルールを厳格に破る。そこに確信というものが存在しない。
  具体的に考えよ、は滝で言う言葉だ。滝打たれでは一回一回についてレポートを書く。あるいは書かせられる。いずれにしても書く。書くには書くが、自分と離れていることを書く場合が多い。なるほど、そういう人は書かせられているのだ。自ら書く人はそれがどんな内容であれ、自分を基準に書ける。いや、書かないでは済ませられないのだ。書かせられる人は自分が見えない代わりに、約束事の人間を勝手に想定して書く。約束事の人間とは理想の人間像である。だがその理想というのは愚かしい自分が見えて初めて見え出すものだ。理想の人間像というものは、何度も訂正された挙句に定まって来るもので、初めから終わりまで理想の人間像が一つということはありえない事なのだ。
 ありえないのだが、レポートを書かせられる人はたった一つの人間像だけを想定し、そこから自分を反省する。たった一つの理想の人間を自ら疑ってこそ、レポートになるのに、その疑うということができない。疑わないたった一つの理想を基準にして自分を反省してみた場合、何を反省したことになるのだろう。何も反省にはならない。滝打たれがつまり生き方が嘘という以外に残るものはない。
 誰がそんなたった一つの理想を提示しただろうか、とそんな人の立場になって考えてみる。すると、見えてくるものがある。それは人生の多くを約束事として生きているということだ。だが約束事で生きた結果で窒息してしまったから、自分を変えようとして滝に来ているのではないのか。
 生きてきた癖は簡単に消えない。約束事を守って良い人であり続け、失敗もないという生き方は人を必ず窒息させる。現代人の心因性疾患はそこに原因がある。約束事を守って自分が窒息するのはある種の自業自得で仕方ないが、周りをも窒息させる。だから滝に打たれても今までの約束事を守る癖はなかなか消えない。だがそういう自分が見えて欲しいと思う。


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