(毎月発行の『連絡紙』より)


●平成22年9月号

 サッカーワールドカップが終わった。日本は大健闘して決勝トーナメントに進んだ。結果的になるがこの大会の準優勝チームであるオランダに零対一で敗れただけで、圧倒的に不利とされていた予選D組を勝ち抜いたのだ。更には決勝トーナメントでは緒戦でパラグアイにPK戦の末に敗れた。とはいえパラグアイ優勝したスペインに零対一で敗れたチームだ。そのパラグアイにPK戦の結果で敗れたのだから、パラグアイと同様な成績を残せたのか、というとそれはサッカーという競技の性格上ありえない。だが日本が大健闘した事は紛れもないことだ。
 この大会では病気のために影の存在になったが、オシム前監督の凄さが光った。オシム発病後、岡田と言う人が監督になった。岡田監督に「自分流でやらなくてどうする」と喝を入れたのはオシム氏であった。
 
オシムと言う人の発言を聞いていると滝で言っている事と重なる部分が多くあって面白いと思った。
  対カメルーン戦の前には「日本には敗北する覚悟と勝利する執念があればよい」と言っていた。筆者も滝に対しては「玉砕する覚悟」と言う。同じ覚悟でも敗北と玉砕とでは違う言葉だが、恐らく同じ意味で使われていると思う。同じ意味の言葉をつかっているから正しいのではない。敗北も玉砕も大事なキーワードだが、それ以上に大事なのは『覚悟』なのである。もっと言えばその覚悟の強さである。
 滝に打たれる時にも玉砕を思えばよいのだが、強くそれを覚悟することが肝心なのだ。強く覚悟をするとは、絶対に自分の主張は通すと言うことだ。潔く玉砕するが、むざと玉砕してはならないのである。
自分の主張と言うと高尚すぎるなら、意地を貫くということだ。同じ玉砕するにしても自分の意地だけは貫き通すことが肝心なのだ。意地を貫き通したその後に玉砕せねばならないのだ。それまでは玉砕してはならないのだ。玉砕の覚悟とはそういうことだ。少なくとも滝打たれでの玉砕とはそういうことだ。
  オシム氏のいうのも同じで、自分の誇りを貫かねば敗北の意味すらないのだ。誇りのない敗北からは何も生まれない。逆に言えば負けに至る形が覚悟できていれば、敗北しても自分にやましくない。それが覚悟を強く、という意味だ。
  勝つ事しか意識にないと覚悟は弱まる。何が大事なのか、それが判ってないと前に出る力が生まれないからだ。勝つ執念だけだと、勝てないと思った時に力を出してみようがない。戦況が不利になった時に力を出すために勝つ執念のほかに敗北する覚悟が必要なのではない。敗北を覚悟するとは負けをしっかり受け止めるポイントが設定されてなければならないと言いたいのだ。
 良く言うが「〇〇だったから滝打たれで集中できませんでした」は初めから意味がない。「〇〇なことは覚悟していたし、予想外の◎◎もあったけど、滝打たれで集中しようとして、でもできませんでした」が正しい。同じ集中できなくとも、持つ意味はまったく違う。
  自分のツボにはまれば力が発揮できてツボにはまらねば発揮できないのは当たり前の事で、修行とか勝負とかにはまったく繋がらない。更には生きることにも繋がらない。良い環境で育った人は全くひ弱で悪い環境で育った人は逞しく真実を見る
目がある。そんなひ弱な人はできない原因を自分以外におしつける。便利という温室に育っている人は勝利する事しかイメージできない。だが大切なのは敗北する覚悟、つまり敗北する時のイメージである。更に言えば敗北する時のイメージとは自分に勝利するイメージでもある。

 
御嶽の夏登拝が終わった。その昔、「私はこの登拝で自分に勝ちました」と言った人がいた。あるいはそうなのかも知れないが、筆者にはわからない心境だった。御嶽に三十八年間百余回登拝し、滝打たれも二十二年三千五百回以上やっても、筆者は自分に勝ったことがない。勝とうとは思うが勝てない。だが、自分に誇りを持ちたいものだとは思っている。


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