●平成23年10月号 |
医者が自分の腎臓移植のドナー探しを暴力団に頼み、その金額で揉めて警察に駆け込んだ。事件が明るみになった時に、その医師は既に別のドナーによって臓器移植の手術を終えていた。 自分が腎臓を痛め、移植の手段で生き延びようとする事は、それが医師であっても個人の生き方の問題である。また、移植をするにしてもしないにしても必ず心に痛みの残る事であって、良い悪いを越えた問題である。 だが、それで良いのだろうか。今回の事件には個人ではなく、医師という立場という次元で考えねばならない問題があったと考える。 医師は特殊な立場である。人の命と関わるゆえに報酬も高額で、ある種の現代社会の貴族である。そういう意味では社会的なリーダーたらねばならないのだが、実際にはおだてられた甘ちゃんが多い。 件の医師もその様で、とにかく生きたかったのだろう、だが暴力団にドナー探しを頼んでおきながら、命の値踏みを間違えたために争いとなって警察に逃げ込んだ。腎臓に限らずだが、臓器は文明国ほど高い値段となる。それは文明というものがヒトと他の動物に差を見出すが為だ。文明の進んだ国ほどヒトの価値は高くなる、という暗黙の了解があるようだ。だから高い文明国のヒトの臓器は高く売買される…或いは低文明国ほど臓器は優良な場合も多いのに、だ。 そんな甘ちゃんの医師が必死になって不治の病から逃れようとした…それはそれで良かろう。だが彼は医師なのであった。医師だから助かる方法を無視して短命でいなさい、というのではない。医師なのだから、人生は長さでは無いよ、ということを知っていて欲しかったし、それを具体化した生き方をして欲しかったのだ。 要するに、この甘ちゃん医師には哲学がなかった。死に耐えうる価値観を持ってなかっただけの事だ。だから腎臓移植手術が成功した今も、恐らく贅沢三昧な生活をしていて、それが医師という高給の特権だと思っているのだっただろう。でも再び腎臓が或は他の臓器が弱ったらこの医師はどうするのだろう。再びドナーを探すのだろうか、諦めて死ぬのだろうか、それとも漸く気付いて哲学と作って安心して死ぬのだろうか。 一般人は、例えばドナーを求めていて合致するドナーが見つかり移植手術が成功しても、生きてゆくことに心の痛みがついて回る。他人の命を頂いた事に喜びと同じ量の痛みがある…それは買ったものでないからだ。人と比べてどんなに短い命でも、命は平等という事に気付いているからだ。 自分の立場を全うすればおのずと開ける世界がある。それはまた辛さの全うでもある。辛さを辛さと受け入れれば済むのに、給与の多さで受け入れる。だから学ばない。そしてみっともない生き方をしてしまう。辛さと向き合わないで安心は得られない。
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