(毎月発行の『連絡紙』より)


●平成23年11月号

 プロ野球セ・リーグでは中日が優勝した。二年連続の制覇で、これは中日球団の創設以来初の事だという。監督の落合博満が更迭される事になってから、遅まきながら今シーズンの中日は勢いを持った。落合監督が更迭されるのも当然で今年の中日は勢いに乗れず、ずっと首位を走ってきたヤクルトとの差は最大十ゲームもあった。更迭に対して監督は『勝負の世界はそういうこと』としか語らなかった。結果が悪いのだから当然、というのが監督の心ではなかったか。だが選手が発奮した。監督更迭が決まってから急に勢いを増した。監督引退の花道を優勝で飾ってやりたいと思ったのだろう。シーズン残り十三試合で首位に立つとそのまま走って優勝してしまった。
 
さて筆者は新潟日報に毎月一度は投稿をする。それは主宰するおんたけ山という修行団体をそこいらの宗教と同じに見られたくないからだ。その為に滝打たれを公開し、代表者として意見を公表している。修行は本来一人の行為だが、続けるとなると社会性が問われる。悪い事に、社会では理解できない事には悪い事だと評価を下す。理解できないから見続けようとか、そういうものもあるんだ、とは思わないで否定する。否定されたら修行は続けられない。だから姿を公表にせねばならなかった。修行の個人性からすれば不要な事に見えるが、農家が近所付き合いに農作業の何倍もの労力を要さねば米作りができない様に、実は大変重要なことなのだ。
 その筆者の投稿が掲載された十月二二日、筆者の掲載文の横に、落合監督を称える五三歳の男性の投稿が載った。『何も指導しないのにオレ流リーダーシップで優勝したのは立派。そういう新しいリーダーを求めている』という内容だった。筆者と同じ分析である必要はないが、落合オレ流の分析のない事が疑問だった。良く見るとこの男性は無職だった。無職を馬鹿にする訳ではないが、無職である事と分析できない事は表裏だと思い、納得した。
 落合監督はなるほど『練習はしなくてよい』と公言してきた。だが中日ほど練習するチームもない。監督が駆け引きで無練習発言をしていたのではなく、プロだから上手くて当然、と正論を言っていたのだ。上手い選手しか使わない事を選手は知っていた。だから練習した。だからその練習とは、自分で問題点を見つけその克服策を自分で考え自分で試行し、自分の身につけるまで、を意味した。それが中日の選手達の常識なのだった。
 ここに落合中日の強さがあった。自主自立なのだ。考えてみればプロなのだからそれで当たり前なのだ。そしてプロでないものは認められない・使ってもらえない、それも野球界ではなく娑婆の自然な姿だどこぞの社会のように、弱者が努力しなくても世界の中央にいられるような仕組みなどで出来てはいない。当たり前の事を当たり前に自力で行うこと、それが落合監督のオレ流れなのだった。自主性が無くてはオレ流にならない。オレ流とは言うが単なる常識でしかない。自分という個性を持つオレに対してその個性に合う様に身に付けてゆく事がわずかにオレ流と言えるに過ぎないのだ。
  現代はこの自主自立がわからなくなっているようだ。人と同じでなければ安心できない大人が多い。人の指示を仰がねば行動できない大人も多い。
 指示を仰いでみたところで自分で考えていないなら、言われた事の意味がわからない。だから言われた事を行うだけで精一杯で、それが身に付くことなどあり得ない。指示を仰ぐ段階で既に落第である、その事が判らない件んの五三歳の男性が無職なのは、この自主自立が不明なためではなかっただろうか?.だから簡単に出来るはずの落合監督のオレ流分析が書けなかったのだと思ったりしている。
 自主自立は修行の原理である。筆者は団体を統括するから『自主自立』を主張するが、後は自分で、とも言う。個性に自分が気づかねば自主自立はできない。個性に気づくには全て自前の行動が必要で、それを我々の日常に不都合な形で神は配置している。その不都合と優先して対峙しないと経験にはならず、しっかり生きた事にならない。病人であれ身障者であれ先ず体で生きなければ対峙したことにはならない。だが対峙した事が少ない人は体を張る重さに気づかない。


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