(毎月発行の『連絡紙』より)


●平成23年1月号

この国は四季があって、繊細な神経を個人の中に培ってきた。日本人のDNAはこの繊細さにある。外国を敢えて悪く言うと、いくら中国が三千年の歴史などといってもやる事が豪胆かつ鈍感で短絡的に思える。アメリカに至っては世界のチャンピオンを自負するが結局は力で制しているだけだ。我が国はその点奥行きが深い。
 色の識別が世界に群を抜いている。例えば群青という色があるが、青や紺と群青の違いを私達は明確に識別できる。野球で言っても、アメリカでは直球と変化球しかない。日本は変化球を更に区分けしてカーブ・シュート・スライダー・フォークと呼んでいる。
  それだけ我が国の四季は日本人を感性細やかに奥行き深く作って来た。だが四季は細やかさを培いつつも拘りのなさをもってきた。異常なことが起きて辛い目にあっても我慢して一年経って同じ季節を迎えたら今度は同じ辛さに巡りあうことが少ないようになっている。だから強く拘って深く考えなくても、結果が好転する場合も多い。我が国は「何の為に」という自問が曖昧なお国柄なのである。せっかくの細やかさが拘りのなさで消されてしまうお国なのだ。
  比較して違いを探し、その違いの是非を問い、理想を想定し、その理想に拘って疑ってゆく…進歩とか学ぶとかはそこから始まる。先程の野球の変化球も同様でカーブ・シュート・スライダー・フォークといっても統一されたものはない。投手によってカーブ・シュート・スライダー・フォークがみな違うのだ。ただ大まかな分類を承知で言っているのだ。だがそうやって区分けをする中でその投手の色合いの違いが見え、見えて来るから攻略の糸口が見えてくる。だから細かく繊細な感性こそが求められるのだ。
  日本はノーベル化学賞が十八番のようだが、是とて細かく繊細な感性があってのことだ。科学にしろ文学にしろ、要するに哲学が基本なのだ。化学は科学の一分野でしかない。科学と哲学が矛盾すると考える人は、まだまだ科学を知らないと言える。科学の進歩は何のことはない、比較によるものだ。対して哲学は、例えば悪とは法律違反を言うのか、いや違反しない悪もあるが、これをどういう言葉で表すか…というように言葉の的確な分類を言う。つまり科学も哲学も比較分類と言う点では同じなのだ。そこで求められるのも同様に細やかさである。
  現代日本では未だに物覚えの良さ=頭脳の容量の多さ、をして頭が良いと評する。が間違いでそれは記憶容量の大きい人しか意味しない。本当に頭が良い人とは比較分類が細やかかつ瞬時にできる人を言う。つまり、日本人の奥行きの深さこそ頭の良さの証明なのだ。だから化学の現場の人々がノーベル化学賞をもらえたのだ。
  日本人の奥行きの深さは拘りがあってこそ活きる。拘りがないと細かい感性も単に比較分類にしかならない。比較分類したものを活かすのは自分の拘りの有無・強さによる。修行は拘りを一旦置いてかかるから成り立つ。拘りが無くてはそれは修行でなく単なるルールに従った行動にしかならない。自分の拘りを一旦捨てる勇気と新しい痛みに全力で向かう勇気、その出し方の訓練が修行なのだ。そして自分の中に拘りを持つ事は特別な事ではなく、生きる素直な姿なのだ。だが私達の多くは一年間我慢をすれば楽に成る環境に育つせいか拘りを持とうとしない。その方が楽なのだ。楽ではあるが、どんなに幸福であっても不安がついて回る。だから充分満足できるささやかな幸福ではなく人並み以上の幸福を求める。人生とか生き方に拘るのは人生そのものが無意味だからだ。無意味を意味あらせるのは自分の努力でそれを自立と言う。意味あらせようとするには拘りが必要だし、拘りとは痛みを受ける事だから難儀なのだ。しかしこの難儀を受け続けないと人生に意味を見つける事はできない。無意味な人生に意味をつけるのは自分しかいない。自分の拘りの比較分類しか人生の意味づけができない。十一月に行われる安薨式の意義はここにあるのだ。そして新年を迎え…更に自分の人生を考え奥行き深く生きようとする。


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