(毎月発行の『連絡紙』より)


●平成23年2月号

最近の流行語にパワースポットというものがある。その場所に行った人がパワーアップ出来る場所と言う意味らしい。「ブームなのだから何でも見なければ・味あわなければ」という人も多いようだ。
  その中にはパワーアップできることを信用しないし、それに期待しない人もいる。筆者もそれに費やす時間がもったいないと思うが、社会見聞の一つと考えるからなのだろうか、足を運ぶ人も多い。そんな中で真剣にパワーアップを願って訪れる人が少なからずいて、そのことが筆者には不思議でならない。
  筆者も行者の端くれだから、パワーと言うものの存在は認める。ここでいうパワーとは気のことだ。元気と言うし景気と言うし、元気が有り余って起きる病気に中気とも言うものもある。そして生きている物はすべてパワーが一定でない。誕生して死に至るまでの生老病死がそういうことだ。生き物全てに気はある。生き物は動物だけでなく植物も生物の範疇に入り、生物が活動するエリア、つまり土地も生きている物に入るのだ。パワーが土地土地によって異なり、だから結果としてその影響を受ける。動物も植物も気の影響を受け、このことを社会では『障り』と称してきた。その障りの中で最大のパワーをもっているのは土地である。障りはいわばマイナスのパワーである。だがその排除が可能だとしてもそれをパワースポットとは言わない。
  それなのにパワースポットに行って自身のパワーアップを図れると、信じ込んでいる人が結構といる。確かにヒトも生き物であり、生き物は土地の気の影響を受けるのだから全てを否定する訳には行かない。だがやはり違うと筆者は思う。
  これに似た話は二十年近く前にもあった。森林浴という言葉だった。フィトンチッドという健康に良い物質が森林に多くあるから、森林を散策するだけで物質を吸入できて結果として健康になれる…というものだった。森林浴をした結果ではあるが健康になって何をするのさ、という思いがあった。何よりも森林浴を一回するだけで健康になれると本当に思っている事が筆者には情けなく思えた。
  滝打たれも同様で、頭が良くなる・万病に良いと言われているし、マイナスイオン効果を説く人もいる。だが頭が良くなり万病が良くなって、それが何の意味を持つというのか。要するに「健康になってどうするのさ」こそ問題なのだ。この答えは悩み続けねば出てこない。簡便な方法で結果を手に入れていてはこの答えは見出せない。
  幸せは好都合で不幸は不都合であり、幸不幸は人生の風景でしかない―本当の不幸はこの事が判らないことに尽きるのだ。どんなに都合の良い状況に変わったとしても、それを活かせるか否かは、本人の学びによるのだ
例えばそこに足を運びさえすれば済むというような簡便な事では学べない。過去に「強くなりたい」といって滝に来た女性がいたが、一回打たれれば強くなれると思っていたようだ。そう思えることが変じゃないか…。思えば彼女に限らず、一回で劇的に変われると思い込んで来る人がそれなりの数に上っていた。
  一回で自分が変わる出会いがあっても良いし、劇的な出会いというものもそれなりに存在する。だが一回で劇的に変われるものを得たとするなら、そこで得たものの正体は進むべき方向付けの確信でしかない。この確信した方向に進みながら何度も何度も同じ痛みを反復して、ようやく境地の会得に近づく。会得に近づくにしたがって自分の生きる姿が見えてくる。それがいわゆる自分という馬鹿の確信である。この自分という馬鹿に確信しなければ安心には至らない。
  安心に至らないのは、逆に言うと簡便な生き方をしているからだ。簡便を言い換えると刹那の生き方であり、目先の生き方である。
そうだから、簡便に生きているが分からなく、分からないから簡便な生き方を繰り返す…簡便さを自分で変えないと何をやっても自分は見えてこない。「一回で判る」、「一回でパワーアップできる」、それは信じないけど試しにやってみる…でもこれもやはり刹那でしかない。そんな幸運が存在するとしても、何事も積み重ねて生きるから私には無縁だ、こそが正解なのだ。


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