(毎月発行の『連絡紙』より)


●平成23年月3号
 解決とは自分が変わる事に尽きるが、病気もまた自分が変わらねば治らない。単純な事だがこの事が判らないというか切なさ辛さの余り判ろうとしない人が多いのではなかろうか。
 病みながら自分の病気に無関心な人も結構と多い。せっかく病気を貰って自分という存在を問いかける機会を得たというのに、医者の言う事を自身の体に照らし合わせせず丸呑みにしてしまう人が多い。自分が病んでいる病気の知識は多く持っているが、それは病気の学問知識であって、生きている病気の理解にはならない。
 人間は病む存在である事を理解しないと生き物である病気は判らない。病む存在であるのに病気を人間から引き剥がして病気だけを考えている。この事に私達の多くは気がつかない。
 病気というものは自分で作る。胃潰瘍だって自分の体の中でしかできない。病理一般からすれば胃潰瘍は誰でも全て同じ事になる。だが現実は人によって大きく違う。胃潰瘍を始めとするストレス疾患は皆そうだ。同じ環境にいても病む人と病まない人がいて、病む人同士でも病む程度が大きく異なる。また国の文明度によっても大きく違う。高度な文明国では病気とされるのに、途上国では病気ではないという扱いを受け当然に治療対処にならないものもある。皮膚病がそうだ、或いは禁煙がそうだ。
 伝染病を除いて概して言うのだが、病むという事は生きる事の裏返しである。生きるという事は活動をするという事である。例えば運動によって心肺機能が普段の何倍も機能する。だから活動するという事は異常機能した分だけ疲れを溜めるという事になる。疲労は血流でしか取れないから、溜まった疲れを排除しようとして血流を異常亢進させる。活動時の機能亢進は体を動かす反動を伴うから辛さはあっても少ないが、疲労回復は活動時に以上に異常亢進せねば至れないから、強く辛さを伴う。そして異常亢進し辛い目をした揚げ句に私達は疲労度ゼロの体に立ち戻る。この内、機能異常亢進の長時間化をして私たちは病気と呼んでいる。機能の異常亢進時間が長い場合を病気と呼び、短い場合を疲労回復と呼んで区別しているが、共通しているのはどちらも異常亢進=疲労回復という事である。長時間の疲労回復では辛さを伴うから、その辛さを私達は病気と呼ぶがその正体は疲労回復でしかない。だから病気を経なければ私達の体は疲労度ゼロには戻れないと言えるし、薬はこの辛さを和らげるだけで治る方法は疲労を回復させるしかないだから病気と疲労回復の境目はまた主観の違いとも言える。国により人により、苦にすれば病気となり普段のままとなれば疲労回復となるのだ。

 言えるえる事は、
病んだ結果で病気になっても病んだ結果で死ぬという事はありえないという事だ。正に命は授かりもので、病気は生死とは無縁なのだ。病むという姿は生理機能の正常な動きであって、つまりそれがどんなに苦しくても体を救おうとして機能しているのだ。例えば熱がそうだ。発熱は血流が盛んになった結果であって、何の為に血流が盛んになるかといえば疲労回復のためだ。血流が盛んになるという事は結果として、体温も上がれば脈拍数も増す。脈拍が上がって辛いのは運動すれば判る事だ。 
 薬は辛さを和らげるものでしかなく、治るのはあくまで疲労度ゼロになる事だ。だから薬を飲んで痛みを和らげたら休む事が肝要になる。だが安心を得る為に薬を飲む人も多い。薬を飲むだけの理由で病気として扱うが果たして正しいのだろうか。それは精神の偏り、生活の偏り、偏りをもっと正確に言えば間違いと言えるのだ。そこを治す事が病気を治す事である。つまり
病むとは生理機能であり、病気は生理機能プラス生活の間違い()であって、なるほど病「気」なのだ。
  病む原因である自分の生活の中の根拠の無い自己満足の安心、例えば薬の様なものを手放さないくせに病気を治したいという矛盾を正当化している人が多い。自分が悪いと思わなくてどうする。安心は自分で作るもの、という初歩をしっかりやらねばならない。病気を持つ人はその間違いを周りにも振りまいているから、社会生活からも不具者扱いされてゆく…。


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