(毎月発行の『連絡紙』より)


●平成23年月6号

 はっきり言ってなんと馬鹿な国なんだろう、とアメリカを見て思った黒人初の大統領であるオバマ氏は結局自分の再選を第一に考えて、暴力を使い一番判りやすい行動を取った。だが判りやすい事で解決できるなら政治は要らない。ましてや政治家など存在しなくて良い。判りにくい事案に対して合意を取り付けるまで議論し、最大の譲歩と妥協点をみいだして解決とする…それが政治だからだ。
 テロ撲滅と言ってきたアメリカの大統領が政策上とは言え殺人を指示し、それが行われた。ウサマ・ビン・ラディンというテロ組織の長を始めから殺すつもりで行動が行われたのだった。しかも自国アメリカではなく、アフガニスタンという外国で、更にその国の政府に何の断りも無く、である。

 見知らぬ家に大勢で入り込んで殺人を犯して引き上げる…幕末の新撰組のようだ。少なくとも相手国家に対する信義など何も見えない。問題はそこまでして行動せねばならないほどの重要性があったか、ということだ。子供が大人から見たらどうでもよいおもちゃを欲しがっておもちゃ屋の前で仰向けにひっくりかえって駄々をこねているようなもんじゃないか…。テロ撲滅はわかるがそういう行動は正に子供の駄々と同じで、思いは果たせるが何も学ばない。学ばないから得るものは何も無い。更に悲しいのは、「USA」を連呼して歓喜する人々の映像だったし、オバマ大統領の指示を八割以上の国民が支持をした、というアンケート結果だった。

 その如きしか考えられない国民性の国が「アメリカ・アズ・ナンバーワン」を唱える。今回の事件に限らずだが、アメリカという国は常に・アズ・ナンバーワン、つまり一番である事を主張する。だがその実態は自分の都合のごり押しである。情けない事に今回の事件の如く、誰も殺人罪に問われることも無く、問うという発想も無く、逆に八十五パーセントの人々が大統領を英雄に思ってしまう。繰り返すが、駄々をこねた子供がお望みの下らぬおもちゃを手に入れて得意満面になっているのと同じ姿だ。もっと言うなら、賢い子なら反省をして駄々をこねない自己主張の方法を考える。少なくとも大勢が寄ってたかって、「USA」を連呼する事などしない。
  筆者は我が国の将来を悲観して考えるし、それを大人の責任、もっとはっきり言えば大人個人の生き方の不明さによるものと考え、それではいかん、と訴えてきたつもりだ。そんな意味で我が国も悲しい状況にあるが、今回のアメリカを見て日本人で良かったとも思った。なんと言う浅はかな国なのだろう…が正直な感想だった。少なくとも黒人初の大統領くらいはあんな愚挙を指示しないで、それまでの自分の主張を通すべきだった。
  この事件と関連して十年前のニューヨークの国際貿易センタービル破壊のテロ事件を思い出す。このテロ事件でアメリカは対テロ撲滅戦争を宣言した。考えてみればテロを撲滅するのにテロ以上に大掛かりな暴力である戦争を宣言するのだから、この時点でなにをかいわんや、だったのだ。そんな中でジュリアーニ市長だけが「非は我々の差別にある。我々が差別している現実に気づくべきだし、そこから学ぶべきだ」と言っていた。真実である。
  ヒトとして正義は大事である。正義に基づく行動を自分に無理強いできてこそ初めて自立できたという。この自立というものはなかなか出来ない。優秀なスポーツ選手ですらも、ヒトのために戦って成果を上げようとしてきた。自分の正義のために戦う事を優秀な選手ですら知らないのだし、それでも成果を残せるという現実があるし、だから優しさが大切という結論にもなっている。だが国のために戦うつもりの選手の多くがプレッシャーで自滅して来たという現実もある。
  正義とはそういうものだ。アメリカ・アズ・ナンバーワンは正義ではなく単なるわがままだが、達の多くも彼らと同じような思いを正義として理解している場合が多いのではあるまいか。だが正義は必要だ。それが無くても生きては行けるが生きた事にならないからだ。だからこそジュリアーニ元市長が言う様に自分を知り自分の現実から学びつづけねばならない。自分の正義を持つとは孤立する事だが、孤立してこそが本当の優しさなのだ。



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