(毎月発行の『連絡紙』より)


●平成23年月7号

 歴史勉学の為に琵琶湖へ行って来た。今回の旅で複雑な思いをさせられたのは、日吉大社だった。日吉大社は全国にある日吉神社の総本山で滋賀県大津市坂本にある。比叡とは日枝であり、日枝が日吉となり、日吉が比叡となった。字が違うだけで全てこの坂本の山麓を言う。そこはまた比叡山延暦寺でもある。お寺が建立される時は、その前には先住する神を祭って土地を切り開く…比叡山延暦寺は建立する時に先住の神として日枝の神を祭った。それが日枝神社、後の日吉大社である。当時は仏教の神社もなかった。というより仏教は神道の神々の一つでしかなかった。だから比叡山延暦寺は日吉神社にも成れた。平安時代、叡山の僧兵は神輿を担いで都の朝廷に強訴した。叡山という仏教の寺なのに神社の神輿を担いで暴れるという事は不思議でなかった。
  延暦寺開祖の最澄の事である。最澄、後の伝教大師は八〇四年七月遣唐使に選ばれて唐へ短期仏教留学した。二六歳の時だ。同じ船には後の弘法大師の空海が居た。短期留学とは言うが命がけの船旅だった。最澄は唐で、「天台」という哲学の仏教を学んだ。空海は密教という魔術の仏教を学んだ。当時、宗教は全て最新文化だった。奈良朝廷が鑑真和尚を唐から来てもらったのも、文化の輸入が目的だった。それを後世では仏教伝来というが、鑑真の持参した経巻の殆どは文化知識だった。その中にほんの少し仏陀の哲学があったにすぎない。
  最澄は天台という仏教の哲学を唐で純粋に学んだ。そして命からがら帰朝すると、さっさと自分の生まれ故郷の坂本に引っこんで庵を結んだ。対して空海は貴族に帰国前からウケた。空海の学んだ密教は、その手品が貴族にとっては願いを叶えてくれるものに思えたからだった。密教はそういった最新流行の文化に錯覚されてもいた。たちまちのうちに空海と最澄では平安貴族の評価に大きな差ができた。
 最澄は空海に願い出て密教の経典を借り、勉強をした。それは自分が密教手品の使い手になるためでなく、飽くまで教理の為にだった。空海は最初気前よく経典を貸したが、やがて教理だけ学んでは批判されるのがオチとして貸さなくなった。仕方なく、最澄は弟子三人を空海に弟子入りさせて密教を学ばせた。その内、二人は最澄の許に帰ったが一人は破門されても帰らなかった。帰って来た二人も密教の手品の簡便さを重用した。
  落胆している中、今度は会津の徳一という法相宗の僧が最澄の教えを批判して論争を挑んだ。「三一現実論」という。平安時代の福島県にそういった僧侶がいたことも驚きだが、徳一はしつこくしつこく議論を挑んだ。「三一現実論」の論争は八年間も続いた。
 要するに最澄は帰国してからろくな目に遭わず、死んでいった。当然に延暦寺は荒れ寺だった。だが最澄はそれを苦にも恥にも思わなかった。彼にとっては修行こそが人生だった。現代風に言えば学び続けることこそが人生で、それしか安心して生きる方法はないと確信していた。だがその延暦寺も三代目の弟子が一転して栄させ、今日の比叡山延暦寺の姿にした。後には神輿を担いで強訴するほどヨタ僧が集まる山となって行った。死んでも弟子に足をさらわれ続けた。
  最澄の一生、更に死後にすら付いて回ったのは『こんなはずじゃないのに』という思いだっただろう。それほど人は楽をして学ぼうとしない。人は修行からしか学べない。修行とは「きっちりと生きる」という事でしかない。楽する事が幸せなのではない。楽する為に生れ、楽する為に努力するのではない。ただ学んで安心して生きる為に、今をきっちりと生きるだけなのだ。今をきっちり生きる事、それが学ぶという事だし、修行という事だ。病気・災害・事故などいざという時にうろたえるのは学びが不足の証明である。うろたえなかったら人ではないが、うろたえの乗り切り方こそが普段の生き方を証明してくれる。どれほど成功しても安心して生きられないならそれは生き方が間違いだ。楽な自分、居心地良い自分の為に結婚してそれに何も思わない人が多い。結婚したらつれあいの分も難儀する事がわからない。自立していないという事だ。最澄は嫌でもそこを学ばせられた。今の比叡山の姿に失望しているだろう。


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