(毎月発行の『連絡紙』より)


●平成23年8月号
 東日本大震災ではこの国の人間性の実情が如実に現われた。というか現代日本人の姿が丸見えとなった。人はイザという時にそれまでの事しかできない。滝打たれに始まる「修行」というもの全てがそうで、恥ずかしくて隠したくても全てが出てしまう。現われた姿に確信するどころかその姿が見えず自己評価すらできてないから、恥ずかしい姿を晒している事が自分では判らないし、そんな自分が当たり前の自分だから疑問を持たない。人は必死の時こそ等身大の自分を現すようにできているのだ。その意味で今回の大震災は現代日本人の姿を隠さず現させた。
 優しさの勘違いを言いたいのである。問題が少しずれるが、昭和天皇崩御のときに歌舞音響の禁止が国よりあって、国民は皆それを守った。一つの配慮であったがそれに疑問を呈する姿が見えなかった。非国民の謗りを踏まえて敢えて言うなら、歌舞音響の禁止が国よりお達しされる必然など何も無かったはずだ。筆者は昭和天皇の崇敬者であったから「言われなくとも」自発的に天皇の身を案じていた。筆者ごときが身を案じたところでどうという事も無いのだが、それは筆者としての当然の心情だった。
 対して今回の震災直後のイベントの中止はどんな意味があったというのだろうか。イベントに参加する人は悪人で思いやりが無いという暗黙の図式まであった。だが果たしてそうだろうか…普段通りに生活しようとする人に思いやりが無いわけではない。筆者は給料の一ケ月分を募金に回した。恥ずかしながら給料一ケ月分が金銭的にも時間的にも筆者の限界と考えたからだ。更に筆者の運営する介護施設では福島県から介護入居者十五名の受け入れをした。何の取り決めも無い受け入れだった。或いは放射能汚染があったかも知れない、或いは受け入れ費用を国や県が踏み倒すことも想像した。踏み倒されれば小さな施設だから倒産するかも知れない…だが切ないときはお互い様ではないか。そんな筆者の考えは「普段通り、その普段の事に出来る事を加える」だった。だから自粛しようなどとは少しも思わなかった。
  これに対して自粛が正しいと考えた人がどれほど節電に協力し、買占め防止の行動を取ったのだろう…、同情はするが痛みは貰いたくないという人も結構いたのではないだろうか。確かにこの震災では多くの人が何かを感じ、何か役に立とうと考えた。それが優しさを示す事であったが、でも優しさというものは本来、痛みの積極的な受け入れであって、同情による満足ではないのだ。
  学校で家庭で、私達は優しさの大切さを教育されて来た。だが優しければ何でも良いのだろうか。優しさとは痛みを避けて同情する事なのだろうか。震災後半月が過ぎて「自粛自粛はいかがなものか。資本主義経済では消費しなければ復興もならない」と理由だてて言い出したが、そんな理屈の前に「優しさとは何か」をわかってなければならないことだったはずだ。

昔、筆者は「優しいだけの男や家庭を大事にする男は自立できないことの現れ」と言っていたが、実際自分のする事が判っていれば優しいだけで生きられなくなるのだ。自然の心情である優しさを現実のあるべきことと対比させなければ、優しさを表現できない。優しい前にタフでないと、優しさを表現できないのが生きるという事だ。それなのに私達はタフでなくても現すことが出来る(どうでも良いという)優しさを優しさと教育されてきた。その程度の優しさを私達は教育されて来たようだ。

 親のせいにしても意味ないが、私達は親から優しさの大切さを教育されてきた。だが親の教育した優しさというものが「その程度のもの」でなかったから、今回の震災では自粛という実質の無いものを大事に考えてしまった。

もっと普段から行動原則を考えておくべきなのだ。普段から、生活に配置されているイレギュラーな出来事をしっかり受け止めねばならない。イレギュラーな生活を受け止め続ける事がレギュラーな生活を意味するのであるが、レギュラーな生活からしか私達は行動原則を教えられないように出来ている。それが神に自分磨きを試されていることなのである。


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