(毎月発行の『連絡紙』より)


●平成23年9月号
 とんでもない大雨が降った。とんでもないとは言うが、気象学者によれば、それが当たり前の時代に入ったとも言う。確かに「今年の雨はせいぜい時間当たり60ミリですよ」と昨夏までの時間100ミリの雨が降らないことを疑問に思い、少し安堵していた。ところが筆者の身近で時間121ミリの雨が降ってしまった。我が国は温帯気候から亜熱帯・熱帯気候に近づいているようだ。温暖化による気象変化は或いは亜熱帯・熱帯気候ではなく全く新しい気候を形作るのかも知れない。
 「避難勧告が出たんだけれど、親類だもの施設へ避難させてくれないか」という電話があった。明確に断わった。なる程普段出来ない事は非常時には尚一層できないと思った。 それにしてもと、思う。皆がせねばならない事をしないで、楽な抜け道を見つけて、その抜け道で通り過ごそうという発想がわからない。少なくともこの人は、抜け道を得な事とか良い事だと思っているようだ。筆者に言わせれば、とても恥ずかしいこと、の一言なのだが、そうは思ってないために、断わられて立腹して電話を切った。
 
 一番大切な「学び」を忘れている。だが社会全体に学ぶより楽を選ぶ傾向が強いのだから、学びを忘れていてもある意味仕方ない。しかし筆者に言わせれば「親類なら、一番後に、と言う言葉が欲しいな」とも「普段親類付き合いもないのに非常時だけ親類面か」とも…。
 
要するに自分の言うことだけ認めさせてオーケーなのだ。言い分を聞く側への思いが見られない。抜け道という無理を利かせるならそれなりの普段の付き合い方があって当然だ。自分の不完全を認めてもらう分、相手の不完全を認める…それも不完全さへのナアナアの認め合いではなく不完全さを完全に近づけるための通過点として認めるものであらねばならない。付き合いというものはそういうものだ。それだからといって、自分の言い分が通るとは限らない。
 だが親類だからとか近所だからとかを口にする人は初めから自分を認めさせるだけしか眼中にない。そういう一方的な事を付き合いと考え、「私は付き合い下手」と称する人も多い。そうではない、付き合いが下手なのではなく、初めから付き合いなどしていないのだし、生き方が間違っているのだ。自分のために人が存在すると考えているのだから、どうしてそんな状態を付き合いといえようか。
  教会に相談に来る人の中にもそういう人がいる。辛いのは自分だけで、その解決のためにあるのが教会、という。そんな人は教会を一方的に利用して逆に来れなくなる。それはそうだ、教会が続いてこそ来れるのだが、一方的では続けてみようがなくなるのだから。 それにしても、である、そうやって人と同じ事をしないで得をしたと思える事が判らない。何より恥ずかしいことなのだ。避難所にいれば周りに気をつかうし、プライバシーもなくなる。病人にとっては最悪の状況にもなる…だがみなそこに避難して耐えているのだ。どうしても、という状況にある病人でもないのだ。むしろそういう病人は言葉を発することすらしない。言ったものの勝ちはこういう場合もあるのだ。
 
人と同じにやらねばならない事を避けよう、と思える事がその人の人生の浅さを示している。人と同じ事をやり終えてその上で否定するならまだ判るが、多くはこの人のように初めから避けようとする。この人は何をやってその年齢まで生きてきたのだろう…と思う。人は人生が高校生で見える人もあいれば一生かかっても見えない人もいる。要するに通るべきハードルをしっかりと通ったか否かであり、そのハードルの積み重ねができているかどうかである。ハードルは嫌に決まっているがそれを嫌々通過しても通った事にはならない。なのに、そのハードルをハナから通ろうとしないのだから話にならない。つまり誰も相手にしなくなる。自業自得とはそういうことで、現実に従順で全力で受け入れるかどうかなのだ。


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