(毎月発行の『連絡紙』より)


●平成24年10月号

あの悲惨だった東日本大震災から一年半が過ぎた。あの地震が既に風化しているような気がして更に悲しい。大自然は薄情だ。大自然こそ神そのもので、ヒトという存在など屁とも思っていない。筆者だけではないだろうが、この世には絶対と言うものがあると信じている人もいる。絶対と言う言葉を変えれば摂理となる。どんなに立派な事を成し遂げたとしてもこの絶対が存在しないなら、それは我がままで罪にしかならない。それなのにヒトの多くは何が起きても自分の目線からしか物事を見ず物事の処理や自分の思いの中に絶対という摂理や正義が在らねば我がままにしかならないという事が判らないらしい。
  だが大震災から一年半が経過して見えて来た事がある。それは『ごまかしてもやる』と言う行動原理が社会の上層部には多くあって、社会生活の風通しを悪くしている、と言うことだ。社会の上層部の事は疑ってかかるべきだという事をこの国の庶民は判りだしてきているようだ。
  筆者は以前から電力会社の保身隠蔽に噛み付いてきた。地震後の東京電力は夏の節電を呼びかけつつ、今年の夏は計画節電をしなかった。他の電力会社の原発二基が稼動しただけで日本中の電力量が足りてしまったのが現実だった。じゃあ、昨年の節電はなんだったのか?。原発二基が稼動して足りたのだから、昨年の計画節電の基礎資料はでたらめすぎたと言える。未だに資料でそういった隠蔽が続いている。なのに東京電力は電気料金の値上げをした。国有化された東京電力なのに、会社の資産の処分状況や職員給与を国が何も公表せずに、だ。倒産させないために国有化したのに、給与の遅配も減額もせず資産の処分も曖昧なまま、経済産業大臣は値上げを認可した。値上げの認可こそ行政が指導力を発揮できる場なのに、枝野という大臣は台本通りに認可した。国のものとなった会社の実情を情報開示せずに認可してしまう…戦前であれば国賊だ。国有化された会社が未だに政府首脳を誤魔化している。株主総会では株主の生命保険会社が東京電力の公正な合理化を訴えなかった。生保は自分の会社が大事で、それには株を買っている東京電力の倒産しない事が肝心で、その為に株主総会では意図的に沈黙した。生保を支えている生保加入者の利益など考えていなかった。
  電力会社のこういった誤魔化し・隠蔽に新聞記者は気づきながらそれを記事にしない。だが国民は新聞も変だ信用ならないと思い出している。そうなのだ、自分を守るのは自分で、「変だ」という匂いを嗅げないヒトは、自分の社会貢献が不足である事に気づき、その不明を恥ずるべきなのだ。
  こういった隠蔽が多すぎる。そしてその隠蔽が国家正義のためではなく自分の思い、正確に言えば我欲の実現のための保身の隠蔽であることに何の痛痒も感じていない事が辛い。議員定数問題がそうだ。裁判で判決が出たから是正します…変ではないか、判決は一票の重さが違うから同じ重さにしなさいと言ってるだけで、選挙制度の改正ではないのだ。参議院の廃止や衆議院の比例区の廃止や、一番大きな問題として棄権票を信任と解釈するかしないかの議論があってこそ選挙制度の改正になるはずなのだ。この事を国会議員諸氏はわかっているのだ。判っていて言わない事を欺瞞と思っていないのが辛い。議員諸氏の生き方が悪くとも筆者の知ったことではないが、それでは国は良くならない。同じような隠蔽は行政にも警察にもあり、民営化したはずの郵便局にもある。社会上層部のお方は常に自分の都合を隠して世の中の方向付けをしてきて、それを社会とか政治としてきた。 
  そういった隠蔽に正義が存在しない事を大震災以降私達は感じ出した。私達は保身隠蔽する人を人生の悪しき生き方の手本とすべきだが、私達も生き方に正義や摂理があらねばならない事を忘れていたのではないか。どんなに夢が実現しても思いに正義がなければ我がままでしかない事を改めて判るべきだ。の意思は理解できないがそれは不合理という形で常に存在する。その不合理から神の意思を正義とか摂理とかで見出す生き方を私達は実践すべきなのだ。



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