本教の基幹の教えに『知は痛み』がある。知るという事は感覚であり、それを境地に高めてこそ、知ったということになる、と言うものだ。対して現代は便利の時代で、必要な情報は痛みという感覚を抜きにして得られるし、痛みそのものを排除して理性とすら称する人もいるがそうだろうか。
昨年の東北大震災は、大自然の摂理という痛みをクリアーできない知識は単に小手先の便利でしかない事を如実に示した。あの惨状に私達は涙したのに、視覚だけの痛みだから新年を迎えたら忘れて果て、目出度さに心浮かせてしまってはいまいか。
昨年ブータン国王が来日した。貧しくても幸福度九十七%であることもっと注目すべきだったが深く考察する事がなかった。皮肉って言えば直ぐに忘れるという、さすがこの国のヒトらしい反応だった。そういう即物的な生き方は止めろ、と言う事があの大地震の主張だったと思う。そういう即物的な生き方こそジャパンバッシングの原因でもあった。では、即物的でない生き方とは何か、今々の便利さを幸せとしない生き方とは何か…こそが問題となる。
今々の便利さを幸せとしない生き方からは学びが無い。学ばないからひ弱になる。現代の都会の生活なぞ、地球の鼻息だけで壊滅させられるひ弱さでしかない。そこに住んで煌びやかさを良いものとするヒトは、これもまた当然にひ弱で、学んでいないから回りへの関心も無く、学んでないから自らの孤立を干渉のない自由な事と解釈してしまえる。更にはそういったことの全てを幸せと思い、恥ずかしげもなく言って来たではないか。そういった一切を否定して私達はあの大地震から学ばねばならなかったはずだ。
要するに痛みを受け入れるということなのだ。人、いや生物全ては痛みから離れたら生存できないようにできている。これは命というものの絶対条件で、文明の高さには関係しない。この命の絶対条件を不幸と捉えるのは間違いだ。しかしこの間違いに少しずつだが気づきだして来てもいる。アレルギー治療がそうだ。アレルギー治療は今まで発症しないために原因を確定させてその原因を遠ざける療法だった。だが人は元々が学ぶ存在なのだ。アレルギー物質への反応の異常をアレルギー疾患と呼んだだけの事で、反応はしているのだ。ただ反応の仕方を体が学んでいないだけなのだ。だから慣れるまで違和感=痛みに頑張らせて学ばせればよいのだ。
同じ事がストレスにも言える。筆者はストレスこそ人格形成の原資と訴えてきた。ストレスの痛みに慣れてしまった時に、脳は感性の部分が発達してしまっている。感性の発達は人格の変化を導き、ひいては哲学の形成にいたる。これも余談だが、滝打たれは哲学作り、と筆者が主張する理由はここにある。滝が怖くなかったら哲学は涵養できない。
人は当たり前の事として怖さとか痛みの中に居ねばならない。そのように出来ている。それを不幸というのは西洋の人間万能の考え方だ。その人間万能の考え方の根本に西洋哲学がある。宇宙の中の「人」だけを特別優先するという西洋哲学が基本となって、西洋医学が生まれた。だから、苦痛というひとつだけを優先し、全体の摂理を認めない療法となった。そこだけ楽になれば良い、そのために他が痛んでも悪くなっても良い、命が助かれば全体が苦しんでも良い…それが西洋医学である。これを受けて、命は必ず果つる。だから絶対治療は無い、と多くの人は思ってきた。
こういった西洋医学の刹那の考え方は介護という世界が出来ているのにまだ、それを良しとしている。「命は果つる、だから命の終わりは医療では扱えない」こそが正しいのに、だ。人は生きながら痛みを受け、痛みをクリアーできるようになっているのだ。それが学ぶということだし、哲学を作るということだし、生きて成長する摂理なのだ。
大地震は摂理のない生き方を簡単に壊滅させた。それで当然なのだ、と私達は学ばねばならないし、間違ってきた悲しみを真剣に痛みとして受け入れねばならない。
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