(毎月発行の『連絡紙』より)


●平成24年3月号

  白玉の滝の冬の滝開きが終わった
  今回はテレビ4局、ラジオ2局、新聞4紙が取材に来た。他にインターネットテレビが来たし、新潟吉本のバックスクリーンの二人も打たれた。 
  今回は一般参加の人も多く集まり、総勢26名が白玉の滝に打たれた。今回、白玉の滝の滝打たれに参加した人たちはみな『熱く生きる』人だった。社会が滝打たれに求めている事がなんであるかが、かいま見えた様に思った。
  その一般参加者の中に、消防のレスキュー隊員のОBがいた。彼は年末まで気仙沼市で東日本大震災の復旧のボランティアに当っていたと聞いた。今回、滝に打たれて自身に気合を入れ、それから再び気仙沼に向かった。
  退職をした場合、老後の生活が平穏無事の生活を望む人と責任あるヒヤヒヤの生活をする人に二別できるようだ。退職をしたのだからもうあの難儀をしたくないと思う人は多いようだ。そして悠々自適とまで行かなくとも年金で細々と平穏無事に暮らそうとする人は多い。そういう人に再び働いてと頼み込むと、「責任がない部署なら」と多くの人は答えるそうだ。でもそれで良いのだろうか、定年まで働いていれば、働くという事は責任のある部署ばかりという事が判っているはずなのだ。それをありえない、責任の無い部署なら、と答えてしまう。そして自ら社会との関係を絶ってしまう。ヒトは社会的な存在だからこそ価値がある。社会から離れて一人で生きてみれば、束縛やしがらみはなくなる。が、それを自由とは言えない。自分が人間でなくなるだけだ。
  レスキューОB氏は胃がんを煩っている。だから普通なら震災復興のボランティアになぞ行かない。ましてや滝に打たれたりはしない。しかも滝打れでは一般参加者どころか健魂の我々よりも堂々と全うな姿で打たれていた。ごまかしもすり替えもひるみもなかった。ただ「来るものは来い」と立っていた。滝がどう出て来ようがそれは勝手にどうぞオレは正々堂々と立っていることに専念するから、と。
 見える人には見えるのだと思った。冷めて生きるより熱く生きるほうが何倍も正しい。その上で、全うに今を生きる…その今には善も悪もない、
  ただやりたい事ではなく、やるべき事を真っ正直に丁寧に行う…。それが今という時の全世界の支配者となって行く態度である。んなに自分に不利な状況だって、逆に有利な状況だって、自分であるべき姿を決断して、丁寧に行うということだ。
私たちはレスキューОB氏の生き方を忘れてしまってはいまいか?。レスキューОB氏が常に意識しているのは死であろう。あれだけの地震に遭ったのに多くの人が、ヒトは必ず死ぬという意識を持ち続ける生き方を既に忘れてしまっている。
  先の震災で見えたのは、目先の利の実現を幸せとして考えてきた私達の生き方だった。その為に十年後の安心を考えなくなってしまった。幸福も不幸も人生の風景でしかないのに、幸せにのみに拘る、しかもそれが人生のすべてであると錯覚して。その結果、ヒトから逞しさを失わせ、安心して自分を生きるという事を忘れさせ、生きる事を約束事にしてしまった。
 ヒトはいつか死ぬ、必ず死ぬ。物事を考えるとき、そこから考えるべきだ。そこから考えれば判断に間違いはあっても、その一切に私心は含まれない。私心がないから時として反社会的な事でも悪としてでなく正義として、強さを以って行ってしまえる。
 ところが私達の多くは必ず死ぬという事を忘れて明日も自分がいると錯覚している。そんなヒトは死を意識しても、だからやりたい事をやっておこう、と考えたがる。がさつに生きてそれを恥ずかしく思わず、むしろ幸せと思い、得意に思う。死を意識しないで死んでゆくのは辛い。死に耐えうるのはどう生きたか、であるからだ。
  ヒトは必ず死ぬ、だから自分を確信し自分という個性を極めねばならない。正々堂々でないと生きた事にならない事が判る。失敗も成功も善も悪も、正々堂々としていなければ何事にも価値が見出せない事が判る。善も悪も法律が基準でなく、自分らしさが基準となる。一切の既成の価値観が意味を無くすが、その代わりに最大の善意が表れる。熱く生きるとは死を意識し続けることでもあるのだ。


講話集トップへ戻る




トップ定例活動特別活動講話集今月の運勢@Christy