二十三年も押し迫った十二月三十日、教会に電話があった。「おんたけ山ですか。私、〇〇ですけど判りますか」とモソモソと話して来た。要するに近所に住んでいる人であって遠いけど親類なのだ。ヘルパー二級を取った私を使ったらどうか…という事なのだ。しかしである、筆者の事をおんたけ山と言いながら、『管長』でも『先生』でもなく会長さんと呼び、採用予定がないというと「私は昔人間だから縁故就職がいいんです」と来た。どこまでも自分のペースなのだ。
人生は生きたものの・やった者の勝ちである。楽して目標に到達したって何も身につかない。件のオバさんは既に七十歳を過ぎている。七十過ぎて働きたいというのは殊勝な事だ。だがその働くという事すら自分勝手な行動になっている。それはこのオバさんに世の中の仕組みが見えていないという事を意味する。このオバさんの様に世の中の仕組みの判らない人が現実にいる。かと思えばで人生が見えている高校生もいる。学ぶとはそういう事で、人生のキャリアに関係しない。真剣度としか関係できないものなのだ。
それにしても考えない人が多い。便利で都合よければそれで終了にする人は考えない。このオバサンの場合は近所であるという付き合いもしないで都合の良いときだけ近所を持ち出し、親類などと言うが、そういう付き合いをせねばならない間柄でもない。筆者に言わせたら、無理しても私を使ってというなら、それだけの普段の実績がなければならない。人の信用とはそういうものだ。信用される実績を作ってないのに、切ないときに近しい間柄を引き出してくる。信用の問題であり、信用とは生きる品格と同じ意味でもある。生きる品格を別の言葉で言えばまっすぐ生きるという事であり、まっすぐ生きるとは真面目に生きるという事にもなる。
だが真面目とは、倫理道徳を守ることではない。よく言うことだが、良い人になる為に修行というものがあるのではない。修行は自分という個性を磨くことで、個性を磨くとは自分の馬鹿に磨きをかけることだ。だからまた修行をする人は悪い事をせねばならない時には断固行え、とも言う。悪事と判っていても、悪事を行わねば自分に恥じる事になるなら、断固その悪い事を行わねばならない。更に言うならその時に悪い事はその人の馬鹿にとっては正義となっている。だが件のオバさんはそこまで考えてなどいない。ましてや自分らしさとか倫理道徳に反するとか反しないとかも考えていない。都合の良し悪ししか判断の対象になっていないのだ…。悲しいがこの種のオバさんオジさんが多くいるのだ。
大人は自分への教育を自分で行わねばならない。なのに社会人になってしまうと結果だけを手に入れて済ます人が多くなる。つまり学ぶ事より便利を目的にして生きてしまうのだ。だから見渡せば、世の中は品格不足の人が圧倒的に多くなっている。品格不足とは学びの不足を意味する。
学歴も高等教育も全て便利取得のための手段にしてしまっている。だからどんなに高学歴でも、生きてゆくうえで何が大切かと、問いかけると、答えられない。いや多くは幸せ、と答えられるのだろう。だが幸せと答えられたとしても、幸せとは何か・豊かさとは何かと問うた時に明確に答えられない人が多い。なぜ明確に答えられないのか…それは豊かさとか幸せとかが生きる上の大事でないからだ。生きてゆく事で一番大切なものは『安心』であって、安心こそ唯一の大切なものなのだ。ここを多くの大人がわからない。品格無く落ち着き無く根拠無く、ただ便利を実現して済ませてきた。じっくり考えもせず、今までの都合よい生活の視線のままに反射的に不都合を切り捨てて生きている。
だから私達はあの東北大震災からすら何も学ばなかったのではないか。新潟に住む私達は揺れによる痛みもなく、いや被災者の方々まで今までの生活に復旧したら、実体の無い言葉で豊かさとか幸せとかを再び語りだして、その事に疑問を感じていない。ヒトは失敗して学んでゆくのだから失敗を真面目に粘って分析し続けねばならない。そして学んだ結果にしか実質の察知は出来ず、実質が察知されてこそ品格が生まれてくるのだ。
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