(毎月発行の『連絡紙』より)


●平成25年11月号
 教祖の教えに『知は痛み』がある。学ぶことは痛みを伴うし、皮膚感覚でしか学びの境地は得られないというものだ。だが現代はその痛みを「面倒」とか「辛い」とか言ってパスし、パスすることを楽と理解して、その楽を幸せと考えてしまう。現代人は働く事をどう思っているのだろう。
 筆者の関係する施設でのことだ。新人職員が二人連れ添って辞めた。この就職難の時代に示し合わせて、である。一人の子は二ケ月ほど働いた。前の職場も介護施設で「動きがトロくて辞めさせられた」と自ら言っていた。申し訳ないが彼女は精一杯で行動してもトロいのだ。覚え方が下手なのだから仕方ない。もう一人の新人は四日働いて辞めた。理由はトロい彼女に一緒に辞めようと持ちかけられたことにある。持ちかけられても辞めなくても良いのにと思い、だから辞めてゆくのには別に理由があると思っていた。それが見えた。その理由とは要するに、施設の仕事が面倒だったのだ。
 「二人とも施設のことを教えると『面倒くせえ』と言っていました」とは先輩職員の話だった。なるほどと筆者は思った。
 稼げるならどんな仕事でも良い、と良く聞くが、そういうヒトに限って満足な仕事はできない。「会社の歯車としか扱われなくても金をもらえるなら」とも聞くが、そういう人は歯車にもなれない。なぜならそこに原理原則を学ぶ姿勢が無いからだ。原理原則を学ぼうとしないから企業から見れば邪魔になって揚げ句に不当な金を持ってゆく、としかならない。そんな企業側の目線を意に解さず、本人は給料を貰うことを稼いでいると思い、満足している。辞めていった二人は学ぶことが面倒くさいのだった。学ぶことは面倒だが面白い、と教える前に辞めて行った…悲しいことだった。
 ヒトは満足したらそのポジションで終わりだ。そこに学びが無いからだ。一生を通して学んで行かねばならない…それが生きることのはずなのに、満足をして学びをしないで済ます。学ぶことは施設を辞めていった二人のように『面倒』な事なのだ。面倒とは痛みなのだ。だがしかし、だから学べる。楽に学んでゆく方法があるのかも知れないがそれをして学んだとは言わない。学ぶとは一定の境地を得ることだからだ。だからその境地には、いつごろどういう出来事があってそれをどう苦にして悩まされ、ようやく理解できた、というその真実に至るまでの心の歴史が刻まれている。
  境地を得ない学びは単に知識を得た、というだけの事で本当は学んだと言えない。だが社会では知識の集積をして学んだという。それは正式には『約束事を記憶した』だけの事で記憶した約束事を応用する事はありえ無い。現場の人間が資格を持ち専門知識を学んできたはずの新卒者より仕事ができるのはここに理由がある。
 問題は知りえた知識をどう具体的に理解するか、にある。約束事を集積できたとして、その約束事に疑問を持たないなら、永遠に約束事であって、知った事にはならないのだ。疑問を持つことは満足しないということであって、知識を集積して喜んでいるのはまだまだ知ることには遠いということだ。
 滝の寒篭りでは『気づきの時間』を持っている。自分は具体的にどんな人なのかを色々と気づいてみようというものだ。気づいた違いが短所だとは限らない。それが先天的なもの、つまり個性だったら治しても意味が無いからだ。長所にするか短所にするかは適応のさせ方でしかないから、それが短所に思えたら短所は長所の裏返しだから、長所にするように適応させればよい。
  問題はどうすれば気づくかという事だ。自分に気づくには人との違いに気づかねばならないのだが、気づきの遅い人は人との比較ができないのだ。更に言うなら人と比較するには自分の普段が見えてなければならず、見えなくても違和感が残る。だが満足を基準に行動している人はこの比較ができない。だから筆者ごときに違いを指摘されその違いから自分を学んだと錯覚する…だが人に指摘された時点で学びのパターンから外れていることをそんな人は知らないのだ。満足はそれほど学びを妨げてしまう。



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