(毎月発行の『連絡紙』より)


●平成25年12月号
 この国の人はどこまでキチンと物事を考えようとしているのかと考えさせられる事があって、悲しくなった。二四年暮れの総選挙、あれほどに盛り上がって良かったのだろうかと思った。結局は組織選挙だった。国民の半数近くがしらけ組で投票に行かなかった。国民の六割そこそこの意思、その六割も深刻に国の将来を考えているのではなくシガラミに巻かれての投票だったようだ。こんなことで国の将来が決まって良いのだろうかと考え込んでしまった。ためにこの国の総選挙は小選挙区制に変わってからいつも一方的な勝敗となっている。
  キチンと考えようとしてもできないのが人間である。でも考えねばならない。考える事に限らないが、努力する事と結果が出る事とは大きく違う。しかし努力は自分を磨く意味で極めて大事な事だ。思う様にならなくともやろうとし続けねばならないのだ
  そういう努力を積み重ねてゆく中で大脳辺縁部が発達してゆく。大脳辺縁部が発達して情感が生まれ、感情の区分けができて行き、感情の区分けができた結果、逞しさも増してゆく。それは大脳辺縁部が大脳皮質ではなく脳幹部に属すからだ。
  脳幹部というのは生命活動を司る脳の部分で、受精して最初に出来る脳幹視床下部が細胞分裂してできる脳をいう。だから生命活動と司っている。「人は脳みその四分の一しか使わない」とよく聞くが、残る四分の三の脳がこの脳幹部で、生命活動を司っているのである。ヒトの原始の力つまり野生、の逞しさが宿る部位とも言える。実際に脳幹部の大きいヒトは逞しいとデーターにある。脳幹部は脳であるので頭蓋骨の外から見えることは少ない。だが「ボンのクボ」の谷が見えてくるとそのヒトの寿命は尽きかけていると漢方では判断している。ボンのクボの深部には脳幹部があるから、そこが痩せた結果としてボンのクボの谷が深くなって見える…脳幹部の痩せは逞しさの欠如を意味するのだから、ボンのクボの谷が見えてくるのは寿命が尽きかけているということを意味していると解釈する…これは正しいようだ。
  話を戻すが、だから色々な刺激が情感を生みそれが感情に成長するまでは生理的なストレスになる。ストレスというがこのストレスは脳幹が発達にするまで長時間続く。そしてストレスが感情に昇華された時に、脳幹が発達した分だけ逞しくもなっている。
  話が飛ぶようだが、高齢者の認知はここに関係するのではあるまいか。認知症を大脳皮質の問題と考えず脳幹部の失調と考える…すると脳幹部の痩せが想像できてくる。刺激を受け入れ可能なストレスに変化させ、その都合良いストレスを受け入れた結果、感情が限られてしまい対応力・逞しさに欠けてしまう。認知症はあるいは刺激を自らの脳幹で変化させるシステムが出来ることによるものとも言える。このシステムは高齢による生命保持の力の低下によるのが主だろうが、その人の刺激に対する普段の目線の結果の場合もあると考えられる。
 
この場合の普段の目線とは深く考えない事を指す。自分らしさを探し自分らしく生きる事を目標としている滝の会ですらもこの点の不明な人がいる。面倒な事はしないし考えない事にしている、と言う人が滝に来たことがあった。でもはっきり言える人は、内容がどうであれ、はっきり判るだけ立派なのだ。多くの人は面倒な事を省略している事に気付かないでいるようだ。気付かないならば自分の姿が判らないのも当然だ。
  気付こうとしないのだから、きちんと考えられないのも当然だ。せっかく生まれてきたのに自分を知らないで人生を終わるのは違う、と思う。人と同じ事をして良し、では何の為に命を授かったのか判らない。人と違う生き方をするために生まれてきているのがヒトなのだ。だが多くは逆にヒトと同じであってこそ安堵をする。そういうヒトはいくら頑張っても安堵しか得られない。安堵などという自己満足はいくら多くよせ集めても安心にはならない。安心は脳幹部に生まれ、安堵は大脳皮質にしか生まれないのだから、お互い永遠に交わらないのだ。そんな安堵を求めるのは止めようではないか。深く考えるを大事にしよう。



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