(毎月発行の『連絡紙』より)


●平成25年1月号

 逆神と言う小説を上梓した。結局は自費出版と言う形になったが、日本で一番実績のある『幻冬舎』で出版できたことだけで筆者は喜んでいた。この本は一昨年に再終了した本紙の連載小説であって、終了した時に売れる・売れないではなく、問いかける意味で出版すべきものだった。それが二年ばかり遅れて出版となった為に、今回の出版はおんたけ山としては意味がなく全く個人的な問いかけとなった。出版と言う形で同じであっても時期を逃した事は残念で悔しい。大事な事なのだから、そういう申し出でを待った…だが自分で考えて出版を計画立案しようとする人はなかった。出版を祝う人もいてくれ、それは嬉しいことなのだが、未だに素直に喜べない。
  それはさて、振り返ってみると逆神を書けた理由の一つは、筆者に言葉に興味があったからだと思う。神事の時に奏上する祝詞で美しい日本語に多く出会っていた。この小説モドキは書く人がいなくて筆者が書かされたもので、文書など誰でも書けると思っていた。言葉を使うという事が特殊だと知ったのは逆神が一回目の終了をした遥かの後の事で、五七五のカレンダーを作り出してからだった。誰でも言葉を使いこなして文章を組み立てられる、と思って来たのだがそうではなかった。そうではない、と言っても筆者の場合はほんの少し、言葉に興味がある分だけ言葉を使えているように思えた。言葉に興味を持たせてくれた祝詞の存在は筆者には大きかった。
  言葉を使い分ける…それが上手く出来た訳でもないし間違って使ってもいるが、同じようなイメージの微妙な違いに気づき、それを区分けして言葉を定義する事を哲学と言うのだそうだ。人生を説くとか真実を説く事が哲学だと思われがちだが、そうではなく、言葉の違いを定義して分類し区分けする事だという。
  言われてみればそうで、言葉の定義ができるのは自分の情感が区別できている、できやすいという事だ。情感が区別できるのは体験の違いが区分けできている事と同じ意味で、体験の違いが区分けできているという事は哲学の第一歩になってしまうのである。
 筆者が哲学を思う力がある、と言うのではなく、誰もが言葉の違いを分類できる力を持っているという事を言いたいのだ。その証拠に誰でも人生哲学を持っているではないか。人生哲学をもっと平たく言えば自分の価値観である。
  逆神を書けた理由のもうひとつは筆者が父親を好きだったということではないだろうか。筆者が中学校の卒業式の朝、体調を崩した父親であったが、元々父はビッコでその上、体が弱かった。父親がそうでなかったら筆者は書く気にならなかったと思う。と言うより、ものを書くというエネルギーは湧いて出なかったと思われる。
  現代は心の時代と言われ、心とは優しさと信じて止まない親も多い。優しく教えてゆく事が正しいようにも思われているし、実際思いが通じねば教える状況にもならないのだから、結果を出す意味ではやさしく教えることもあり、だ。現代は幸せを求め結果を出す事が問われていて、その事に多くの人は疑いを持たない。厳しさで人は育たないという教育論者も多い。だがそうなのだろうか。
  人格の形成涵養という事からすれば、厳しさは他人のなすべきことではなく、個人が自分に向けて行うことだと判る。回りから見て厳しくても自分が自分にとって厳しくない場合もある。自分に甘くて人格形成がなるのだろうか?。

実はここが家庭教育の最大のポイントである。親は子に強制して厳しい事を教えられるのではない。厳しさは自ら求めるもので、人から強制されるものではない。親が時間かけて子に見せて行かねばならないものなのだ。人の心は自分の気に合う人なら強制でも受け入れ、気に会わない人からの強制は受け入れられないようにできている。出来ない子は付和雷同して優しくなければ受け入れをせず、幸せと思う。だが本当に出来る子は自らへの厳しさと強制が別であることを親から気づかされている。



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