(毎月発行の『連絡紙』より)


●平成25年2月号

 大阪府のバスケットの名門校で体罰があってそれを苦にしたキャプテンが自殺して問題になった。マスコミは体罰という言葉を使っているが、間違いに気づいていない。この事件が体罰ではなく、暴力事件だと断じないのは間違いである。ヒトは熱く生きる人ほど、熱くなったあまり力に頼ることがある。だが二度目はできない。「誤って人を一人殺す危険性をヒトという生き物は皆が持っている。だが、二人目を殺すのは誤ってではできない。それは故意であって、社会的には犯罪であっても殺す人にとってはそれは正義である」とは筆者のよく言うことだ。体罰であってもなくても、暴力が悪意に基づくものであるか熱意に基づくものであるかは、生徒が一番よく判っている。部外者から見ていても、ひとつの事が繰り返されるのは惰性か正義によるか、しかない。今回の場合、生徒がこの教師の度重なる行動を苦にしたのだから、完璧に(この教師にとっては体罰とすら言えない単なる暴力を体罰という正義にしてしまえる惰性の)悪意に基づいている。
  それなのにマスコミは適当であって、最後まで体罰と言う表現を改めようとしていない。何のためにそういった慎重な言い方をせねばならないのか?。警察が体罰と言っても、暴力と断言する新聞やテレビ局があっても良かったのではなかったか。そこをリードしてこそマスコミではないか。起きた事件を自分の身に波がかぶらない表現で伝えるのが現代のマスコミのようで、社会使命を果たしておらず悲しい限りである。
  普通に考えれば判ることなのに、体罰か否か、体罰は必要か、などと議論していた。普通に考えれば判る事が判らない…そんなマスコミに常識はあるのだろうか。常識が判らないのはマスコミの記者に感性の豊かなヒトは少ない為ではないか。
  心の時代と言われて久しく、確かこの言葉は滝打たれが始まった頃には使われていた言葉だった。その心というものを現代でもまだ清らかなものと捉える不思議がある。子供をみればすぐ判る、子供の清らかな心は極めて残酷でもある。心は清らかだから良いものとは限らないのに、清らかで素晴らしく良いものにしてしまっている。ヒトは普通は同じに目玉を二個持っているのに、同じものを見ても別に見てしまう。あるいは目の見えない人の方が真理をしっかりと感じ取っている場合もある。
  心と言う前に心に刺激を伝達するものが存在していて、それが心を良くも悪くもしている。心に刺激を伝達するものとは「感性」である。つまり知識を生かすも殺すも感性の善し悪しということになる。必要なのは感性の豊かさであるのに、この国ではあるいは全世界に於いても知識の収納容量の大きな人が頭脳明晰として大切にされてきた。でもそう言う人が「学者子供」という言葉で嘲り笑われている現実もある。その反面、私たちの周りでも字はよく判らないがすごく賢い人が結構といる。でも社会では頭脳の容量の良い人が資格を持ち、社会の大事なポジションに付けるようになっている。だから感性が悪くて問題が解決せず、社会が進歩しないのだ。だから訳の判らぬマスコミや教育者がいたりするのだ。
  感性は資質、つまり天性なのである。資質を持っている人は磨けば光る。だが資質を持ち合わせていない人は磨きようがない。資質がなくても目の前の事をやらねばならないから、ルールや約束事にしてしまう。だから進化しない。進化どころか、やっつけ仕事にしかならない。
  だが資質がなくても感性を発達させる方法が唯一存在する。それは痛みを受け続けることだ。苦労人がそこそこ自発的に動けてしかもその動きが的を得ているのはこの事の証明ではある。かと言ってなんでも難儀をすれば感性が発達するのではない。好んで難儀をするのは道楽であって、道楽はなんであれ苦ではなく楽なのだ。
  巡り来た苦だけを逃げずに受け続ければ良いのだ。苦や違和感は脳幹を発達させる。その脳幹に感性は存在する。だから苦から逃れなければ感性は発達する。『知は痛み』とは滝打たれのキーワードである。痛みや違和感を不幸としていては感性の発達はない。現代の盲点はここにある。



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