(毎月発行の『連絡紙』より)


●平成25年7月号

  神代文字というものが21世紀の現代に実際に存在していた。我が国には漢字が入ってくるまでは字が無かったという考え方があって、それでも文字もどきがあったのでそれを、神世の時代の文字とし神代文字と呼ぶ事にして来た。確かに現代の私達が使っている字は漢字が主であり、漢字の一部を使って簡略化したカタカナとひらがなである。だから漢字がこの国に入って来るまではカタカナもひらがなも無く、論理的に字は存在しなかったことになる。だが、漢字移入の前にも字は存在していた。仕方なしにそれを神代文字と呼んだ
 字は民族存在の証しである。言葉が部族ごとに存在し、それを形にして文字となった。部族が色々集合して民族になった。民族を構成する部族の間の言葉には「訛り」はあっても、互いに通用するものだった。
 だからヒトが言葉を持って以来、文字が無いというほうが変で、漢字渡来以前(或いは以後)に漢字を利用しない字があってもいっこうに不思議がなく、ましてやそれを神代文字などという思い上がりの解釈をするほうが筆者には不思議に思える。文字を使う事は話をすると同じに自然なものなのだ。
 件の神代文字は阿賀野市のすぐ近くにあった。石碑に漢字でも凡字でもないものが彫られていた。筆者が若いときに関わったがそれとは違うから、或いはこの集落には同じ文字の彫られた石碑がもっとあるのかも知れない。というよりもっと存在していた。この石碑は明治23年の建立という。明治23年、この文字を発音できて書けた人がいた事になる。凄いではないか…少なくともこの文字は漢字が渡来する以前から使われていた。漢字が西暦300年代に入ってきたとして、1700年以上前に使われ、以後も使われてきたのだ。
  問題はどんな人が使っていたのか、だ。神代文字は古代ハングルと同一と考えてよい。ハングルは表「音」文字であって、表意文字の漢字とは違う。表音文字の代表は英語だ。表音文字は単語の一つ一つを覚えねばならない。対する表意文字は読めなくても字を見れば何を意味するか、朧に判る…。
  ハングルは7世紀に廃絶した。時の新羅の王が唐という国の圧力をかわすための施策だった。公的に使われなくなったハングルは、しかし話言葉として非公然に使われただろう。字が無くなった為に朝鮮半島では言葉と意味だけが残った。その言葉は部族によって違って行った。文字が無い分、訛りが加わっていった。古代ハングルは部族ごとに訛って次第に違っていった…。
  7世紀、唐と組んだ新羅が朝鮮半島を統一した。その頃、日本列島には新羅統一によって滅亡した百済も高句麗も更には伽耶と言う国の人々の集落が点在していた。新羅は半島を制覇するだけで精一杯だった。日本海があって、日本列島を朝鮮半島のように統一するわけに行かなかったのだ。半島に祖国がなくなっても列島には集落ごとに国が存在していたと言える。集落ごとに訛りが加わったが自分たちの出身地の言葉と文字があった。半島が新羅・百済・高句麗・伽耶の国になるまで50国があったという。神代文字が数十種類あるのはその為だ。日本列島に移住した人々はそのまま使ったのだ。
  私達が見た石碑はこの集落の始祖神に仕えた神主が書いたとされる。新しい土地に住み着いた場合、長男は祖先の霊を祀り次男以下が実業に励んだ。だから長男の子孫は神主になった。長男の子孫しか祖先の霊を祀る資格がないのだった。この神主は明治23年に「かまどのおおかみ=竈の大神」を「かまとよおせかみ」と発音していて、だから神代(あびる文字=古代ハングル)文字でその通りに書いた事が推察される。この集落の古老の話では、今も某神社で神主が養成される時にアビル文字を習わされるという。アビル文字=古代ハングルが読めないとその行事の由緒が不明になるからだ。
  新潟の山中に古代朝鮮語がつい最近まで話言葉として使われていた。古代朝鮮語は裏日本で方言と解釈されて今も使われているようだ。



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