(毎月発行の『連絡紙』より)


●平成25年9月号
アレルギー疾患の治療方法が変わってきた。以前はアレルギーの原因物質を特定しそこから隔離させ、症状を出させない治療法だった。この治療法だと薬は段々と効かなくなって行く。薬では現状維持できれば上等で、むしろ後になって大きな症状が襲ってくる。アレルギー疾患が苦痛になるのはこの慢性さと段々と重症になってゆくことにあった。
  これに対してアレルギーの先端医療では、アレルギーの原因物質を少しずつ取り入れさせ免疫力を高める治療法へと方向転換させた。異物の区分けが偏っていて排除力が強すぎるのがこの病気なのだから、異物と感じないものにしてしまうなら排除される事が起きず、異物の排除が症状なのだから症状も起きなくなる…なるほど理屈に適っている。
 この異物を取り入れてゆくという行為は、脳の生理から見てもきわめて理に適っている。脳は異物つまり違和感を感じ続けることによって大脳辺縁部が発達し、色々な情感を産み、その情感が入り混じって価値観を生み出す事が判ってきた。違和感を取り入れる事は大事で、教祖の御教えの通りに正に「知は痛み」なのだ。
  ヒトは「違和感のアレルギー=ストレス」を取り入れて学んでゆく。違和感から苦痛無く解放される事があったらヒトでなくなってゆく。アレルギー療法の変化は、便利・楽して幸せという、その程度の幸せ実現の生き方がヒトにとって間違いだと気づかされたためとも言える。更に言うなら、どんなに大きな違和感でも少し勇気を出せばその違和感と向き合い続けられるのだ。
  出来ない試練は授からないと滝でも言う。違和感を感じるということは既に解決に向かっているということを意味するからだ。違和感を感じるという事は「変だ」と感じるからで、変だと感じる事は直そうとか先送りしようと考えだしたことだ。この内、先送りすれば後で大きくたたる事も見えてくるから、違和感を友にして進むしかなくなる。そしていつか解決を迎えるようになる。
  だが、滝打たれに来られた人の中には自分で物事を考えないという人もおられた。言われたままやっていれば滝打たれだけを通して自己変革が出来ると思い込んでいる人もいた。なぜ考えないのか、それが判らなかった。自分で考えつつ違和感から逃げる人はいるし、そういう人には後になって何倍も大きな痛みとなって問題が現れる。だがこの考えない人は違和感を感じる事が辛いから避けているのではなかった。違和感を感じてないからだったのだ。その現実が自然ならば違和感を感じてみようがないのだった。違和感を感じないのだからそれをその人らしいと解釈すべきで、何もその人の変わる手伝いをする必要がなかったのだ。
  違和感を感じるという事は現状を受け入れる事だ。現状を受け入れる事と現状肯定する事とは大きく違う。神なる存在は一日のうちに何回も違和感を味あわせる。それが学びというものだから学ぶしかない。学ぶとは違和感を感じ続ける事で、それは現実を受け入れ続ける事でもある。
  違和感を確認し続ける意味では、毎日違和感を書いてみる事も必要なことだ。毎日というのは苦痛だが、その苦痛なしでは違和感と向き合っているとは言えない。私達の多くは今々の解決を求めて周りの条件を整え様とするが、周りが整って幸せを得ても違和感を昇華できてなくては自分らしさとは全く無縁なのだ。
  少子高齢化社会で子をしっかり育てるには、大人が先ず違和感を昇華して生きねばならない。少子化社会で大事な事は恵まれた環境を提供することでない。どんな状況でも生きられる事・生きてゆける自信を親が身を以って示すことだ。親が先ずしっかり生きる…世間の価値観に振回されない・やりたくない事からやる・結果を考えない親であるべきだ。そこに違和感が大きな位置を占める。子供に良い社会を残すための親の生き方を学ぼう。学ぶとは違和感を受け入れることだ。学べば不成功・不幸でも安心が生まれる。学んだ分だけ安心が生まれる。親こそ幸せの量ではなく、安心の量を増やすという生き方をすべきだ。



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