(毎月発行の『連絡紙』より)


●平成26年5月号

自分にとっての嫌な事の匂いを嗅ぐ事が出来る…そんな人はいるものだ。人はそれぞれにこだわりを持っていて、この先に嫌な事が控えているとそれを敏感に察知出来る人もいる。そういう人は、だから嫌な目に遭わない。嫌なことにあわないから幸せだと思うようだ。
  だが、そうだろうか?。嫌な目に遭わない分だけ実は学べていない。そういう学びの経験を持たない人には言葉が通じないと言う共通項がある。そして言葉が通じないから、人間関係で浮き上がるばかりだ。
  人は普段通りにしか行動できない。普段通りだから違和感を覚える事がなくて、周りから見てそれがどんなに恥ずかしくても本人は恥ずかしいこととは思っていない。だから言葉が通じず、行動も変わって行く…「私は頑張っているのに…」と言うが、何が頑張っているという根拠なのか、周りからはそれが判らない。自分のこだわっている目線の中で、嫌でない苦しい事を選んでそれを頑張っているだけだ。自分のこだわりならば嫌なことで頑張らねばならないのに、嫌なことを避けて頑張る。はっきり言って、要らぬ難儀を背負って自分で満足しているに過ぎない
  滝打たれに来ていて、打たれる事の上手さや厳しさにこだわる人がいる…。筆者は滝にうまく打たれる事の意味が判らない。滝とは勝負するものと考えているからだ。もっと言えば滝に無視されていながら滝壺で吠えているだけだ。滝に自分という存在が徹底的に無視されるのだが、それでも自分を認めよと吠える…だから学びに至る。認められないのに認めよとその場に居続ける…なのに嫌な事の匂いを嗅げる人は認められないから自己流で打たれる。
  悩まない人は必ず今という時を選んでいる。悩まないのではなく、悩みたくないために今を選ぶのだ。だが考えてみれば判るが、一番辛いのは続けることだ。何事も続けることが辛いことだ。続けることが辛い中で、考える事が一番辛い。辛いからこそ学んで行くのだ。それなのに、辛いからそれを不幸と考える。辛いことが不幸だと思う事自体が間違っているのに、だ。
  一年間辛い目に遭い続けて判った事は三日で判る事の何倍も人生の確信に迫る真実である。一年で判ることは十年で判る事の何十分の一の価値もない真実である。辛い時間が長い程、人は深く学んでしまう。そして深く学ぶほど不動の心を作り出してゆく。不動の心というと物事に動じないように思うが、それは間違いだ。動じない心というものは存在しても意味がない。心は揺れ動くからこそ価値があるのだ。動かない心では何も痛みを生まない。痛みを感じるから生きている心なのだ。つまり不動の心とは揺れ動いてこそ生まれるものなのだ。いつも心は揺れているがその時だけは揺れない…それが不動の心なのだ。
 SТAP細胞という万能細胞が簡単に作られると言う発見があった。この発見は曖昧で偽証かもしれないという説も出てきているが、でも悪くない発見なのだ。なぜならば過酷な状況を体験することによってダメな部分は死に、逞しい部分が生き残るという摂理が宇宙の存続の原理だからだ。この万能細胞も宇宙の存続の原理に則っていて、辛さによって不要なものが取り除かれ、残った部分が必要な逞しい細胞になるのだ。
 この細胞が主張するが如く、人は辛さから逃げねば精神も生理も逞しくなるのだ。それなのに余計な辛さを選んでみたり、味わうべき辛さを避けてみたりする。それは今と言う時の判断を満足という基準で自己判断するからだ。そうではない、人は今という現実を選ばず逃げなければ生き残る力を大きくして行けるし、それが自分らしく生きるという事なのだ巡り来たものはそれがどんな辛くても・自分の好みに合わなくても、関係なく味わうことなのだ不動の心を判る人は何があってもその辛さの中に居続ける自信がある。それだけの辛さを味わってきているからなのだ。辛さを逃げる人は常に楽で満足している。だがその楽を自分で選んでいる分だけやましいのだ。



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