(毎月発行の『連絡紙』より)


●平成26年6月号

毎年の事だが春の野獣の被害が起きている。悲惨な事に今年は熊に襲われて死んだ人がおられた。これからは猿の被害やカラスの被害も起きてくる。更には新潟県では今までなかった猪の被害も出てくるだろう。
  そんな事件を読む人あるいはテレビなどで見聞きする人は、「かわいそうね」の一言で終わってしまう。そのようにすごくあっさり通り過ぎてしまうようだ。要するに考えない・知ろうとしない。
 だからツキノワグマとヒグマの違いすら判らない。ツキノワグマが雑食で、ヒグマが肉食であることすら判らない人が多い。雑食だから、パニックを起こさない限り奴が人間を襲う事はあり得ない。人が怖くてならない、あるいは見たことがなくて人を怖がらない小熊もいるかも知れない。…熊は全て人を襲うものに思っている人は多いようだ。
  その結果、不慮の事故に遭う…被害にあわれた方がそうだというのではないが、野獣に対してだけでなく、危険を察知する感性が衰えている人は多い。
  春先の関東地方の豪雪もそうだった。「よくもまあ放っておけるものだ」と積雪地では思っていたが、行政自体がその雪を全く意に介しなかったから大被害を起こした。日本人は腹を立てない民族でそれを誇りにしてしまう評価もあるが、はっきりものを言わない民族性はいかがなものかと筆者は懐疑的に思う。災害時に日本で暴動が起きないのは普段から行政がアテにされないからでしかない。外国ではあの状況だったら大暴動が起きていた。
  豪雪地新潟でも昭和38年の通称38豪雪で除雪という行動が始まった。その時出動要請を受けた自衛隊は何をしたか?。火炎放射器を持って意気揚々と除雪作業に入ったという。そしてみごと完敗し、ブルドーザーによる排雪を思いついたという。子供心に役に立たない自衛隊という思いがあった…。
  京都の老舗の家訓に『家事には遭うものと心得よ』と言うのがあると聞いた。誠に真実を突いている。事故はあるものにして行動すべきなのだ。だが多くは事故のない安穏状態を普段と錯覚している。そして事故が起きると「あってはならないことが起きた」と言って済ませられる。感性のなさと言ったが、感性の前に関心のなさを指摘せざるを得ない。 関心のなさからみていると、色々な団体でも周りが見えない人がいると気づく。筆者の所属する歴史の会でもそうだ。言いたいことを言いたい人がいて、それを楽しいと言う。 知識を話すことは楽しいのだろう。でもその為に周りの空気を読めない周りの空気を読む必要を感じないほど知識のひけらかしは楽しいもののように思って来たがそうではなかった。知識のひけらかしは楽しいのではなかった。知識をひけらかすことで人の輪の中心にいる優越感、少なくとも輪の中にいられる安心感があるからなのだった。知識をひけらかすことは気持ち良い事から錯覚であると気づけない。自分だけが気持ち良い為に大胆に周りの物事を切り捨てる事が出来る。人の輪の中に、という満足中心の発想がなんの進歩もない事だと気づかない。なんの進歩もないのに、自分を大事にしていると錯覚してしまえる不思議さがある。
  自分に関心があれば周りは見える。だがこういう人は自分に関心があるようで実は自分が満足にしか関心を持っていない事をしらない。自分への関心の不足…この差は大きい。
  自分に関心があれば周りは見え、とともに具体的に考える。自分に関心のない人の多くは満足を中心に行動するから、振り返るとか組み立てるとかしない。振り返るとか組み立てるとかの反復をするから具体的に考えられるようになるのに、
だ。嫌いな勉強を避けて一つのポジションにいられる不思議さがそういう人にはある。得意なことなら何でもしているから…とそういう人は胸を張って言う。だが得意な事はどんなにやっても周りには迷惑なのだ。不得手なことをしっかりやれねば、求められている事すら見えてこない。全ては自分をどう大切にするかにかかる。



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