(毎月発行の『連絡紙』より)


●平成26年7月号

 古い話で恐縮だがロンドンオリンピックのことだ。このオリンピックでは金メダルが少ない分、銀や銅メダルが多く、筆者には爽快に思えた。努力が評価されるのは銀や銅だから良い。これは筆者の美意識なのかひがみなのか知らないが、金メダルは運とか天性とかが味方しなければ得られないと思う。優勝などというものは本来、努力評価の対象外なのかも知れない。
  今回のオリンピック体操競技はその意味で多くの事を示唆してくれた。内村航平と言う絶対的なエースがいながら日本は団体で銀だった。体操競技はルールが変わって、予選は決勝に出るチーム・個人を決める順位付けで、選ばれた選手やチームは決勝ではゼロから得点を積み重ねて行って順位となる。団体予選で日本は最初の演技者が失敗をしたら失敗が伝染して、結果的に五位で予選を通過した。決勝では自力が発揮されたというべきか、銀メダルとなった。だがミスが続いた。
  情けなかったのはそのミスの連発に対して選手一人ひとりが淡々としていたことだった。『演技のやり方・考え方が違っている』と筆者は思った。なぜなら、元気を出せなくてはミスの克服はできないからだ。決勝で全力を出せばよいのだから、という思いが予選では見えた。今大声を出して元気を出し克服出来なくてはいくら個人個人が優秀でも団体としての力にはならない。案の定、団体決勝では銀メダルとなったがミスの連発だった。  その悪循環は個人戦にも及んだ。個人戦予選でも絶対のエース内村航平はミスを連発した。とにかく本番は決勝なのだ、と内村は思ったに違いない。事実、いくらミスしても怪我をしない限り、内村の力量からすれば決勝進出を逃す事はない。事前にどんな演技をするのかを通告してあるから最高得点が事前に判っている。彼の演技構成からすれば予選通過が当たり前すぎるのだから、そう思うのも無理はない。
  だが、ギンギンに緊張せねば異常な力は発揮されない。内村の場合はギンギンにならなくて力が異常に発揮されなくても力量が違うのだから結果は見えている。だから逆に凡ミスがでた。そして決勝戦では得意の鉄棒で落下を避けた無難な演技をして金メダルを得た。だがメダルは取れたが、内村にとって演技したという思いになったのかと思うと違うと思う。だがこれも筆者の勝手な思い込みであって、彼は純真に金メダルを手にした事を喜んでいたのかもしれない。「やっとここまで来た」と彼が言ったのは、まだまだ精神的に甘い事を表わしていたと思う。或いは天才の持つ詰めの曖昧さなのかもしれない。
  日本体操で二八年前に個人総合で金メダルをとった具志堅幸司は「苦手を克服して自信をつけた」と言っていたが、天才は苦手がないのだ。内村は努力しないのではない。いや天才は努力するポイントがピンポイントで判るのだ。才能のない者にとっては「調整」という範囲になってしまう部分まで見えて、その調整を努力対象にできるのだ。だからミスをして減点になってもそこそこの得点を得られる。この調整と努力の違いこそ秀才と天才の違いになるのだ。言葉を変えれば、痛みのある・なしになってしまう。   天才には苦手がない。具志堅幸司はだから秀才で、演技前は演技のイメージを浮かべる
他に緊張を制する色々な努力もしていた。演技直前まで何かをつぶやいて落ち着かせようとしていた。対して内村はボーッとしていた。内村が「緊張した事がない」と言われるのは、問題点が常に整理されていて、しかもその問題点が調整と言うべき範囲のことだからたいした痛みにならない。だから得意の鉄棒で落下を避ける無難な演技をして金メダルを得て、それを自分への悔しさとは思わない。具志堅は苦手不得手という薄皮を一枚一枚剥いでゆく長時間の苦痛を経たから戦い方が一つしかなくなっていてその戦いをするしかなかった。それがまた自分と言う存在を自分で確認する快感でもあった。天才には痛みがない分、ある種のカタワ者である。翻って現代、才能のない人が反射的に痛みを避けて勝手に思いのままに結果を出している。だが天才でない分、その好結果は後で取り返しできない失敗となって表れる。秀才は痛みと戦い、凡人は痛みを反射で避ける。痛みの有無、この差は大きい。



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