(毎月発行の『連絡紙』より)


●平成26年9月号
 またぞろ中学校が荒れだしたらしい。子供は大人の鏡、社会の鏡、親の鏡だ。鏡とは社会の歪み、大人の歪み、家庭の歪みを写し出すと言う意味だ。法律を守っていれば・道徳を守っていれば人は済むものではない。だが、自分の欠陥の無さを位置づけるために、法律や道徳を守ってみせる…そんなに単純なものを人生にしてしまう大人もい多いが、そうなのだろうか…それは違う。

人生の割り切れない部分、合理的に生きられない部分を人はそれぞれに持っている。それをして個性とも言う。それなのに現代はその不合理の部分を合理的に処理しようとし、処理できた人を「よくできた人」と位置づける。だがそれはよくできた人ではなく、「ありえない人」なのだ。

 自分の中にある不合理を合理的に処理することなど、できる訳が無いし向き合うしかないからなのだ。

 だがしかしそんな合理的処理を現代の大人は平気で行なっている。いや平気とは名ばかりで、実態は自分に無関心だからやれることなのだ。自分に無関心を装っていることをわずかでも感じている人は大きなストレスを蓄積して心因性の病気を病んでしまう…。心因性の病気を病んで自分の心を守らねばならない程、自分に無関心であるということは大きな害毒なのだ。それほどヒトは自分の潜在意識を誤魔化せないのだ。

 それなのに、自分の意識をごまかしていることが判らない人も増えている。それは繰り返すが意図的にごまかすのではなく、無関心だからなのだ。

 無関心であるがために、その人は何も病まない。またはそういった難しい問題に近づこうとしないし、難しい事を避けて別のことにすり替える事もできる。そんなことが可能な時代でもあるのだ。

 だが摂理は厳然と生きている。個人が自分の不合理に無関心でいても、

その問題をすり替えしても、大きな害毒は消えない。むしろ回りに蔓延してしまう。それが家族の関係にであり、親子の関係になのだ。

常に十把ひとからげの発想で現代日本の団体生活は営まれている。あの戦争に負けて団体生活の弱点に気づいたはずなのだが、現実はさにあらずでなかなか個人というものを大切にしない。人並という事が最代の価値観になっている不思議さがある。人並であったとしても個人の不合理には何も関与しないのに、だ。

ここに学校の荒廃の根源がある。単に学問所であるならば、学校より学習塾で事足りる。学校があるのは集団生活を学ぶためだ。もっといえば、集団生活とは大勢と個人のあり方を学ぶためで、それは自分という個人の不合理を見つめることにつきるのだ。

…今の中学生の親が中学生の時も学校が荒れた。校内暴力という言葉が流行った。その時、彼らの親が中学に監視に入った。先生に無視されて平気の生徒は親の前では良い子になった。要するにその程度の荒れ方だったのだ。本当に先生や親を見限っている生徒ならば、本当の意味での大人のワルで、学校になぞ行かない。つまり親の前では良い子になれる感受性の鈍い多くの生徒にとっての共通した集団主義の無理のために中学は荒れただけだったのだ。

だが父兄が監視に入ったことによって、孤立したくない・人並みでいなければならないという価値観への疑問は問題に浮かぶことなく、見事に消し去られてしまった。しかしこの、何故孤立すると悪いのか、十把ひとからげの価値観のどこが正しいのかという事を学校が一番教えてゆかねばならないものだったはずだ。

それなのに親が学校に監視に入って、強制的に十把ひとからげの価値観の勝利を形作ってしまった…勝利はしたが誰も中学生の疑問に答えなかったし当時の中学生も答えを出さなかった。その子供が今荒れている



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