(毎月発行の『連絡紙』より)


●平成27年11月号

ヒトは巡り来た事を集中してやり通すだけの存在である。何が巡り合わせられようが、巡り来たことの是非を言う権利はヒトにはない。それなのに巡り来た事を自分で選ぶ人は多い。やってもみないのに自分の思いで、良し悪しを言える…そんなことに疑問を思わない人は多いし、そのように選んで当然と思っているし、むしろ幸せに思っている。
  巡り来た事を自分で選ぶ時は慣れた事以外を拒否する人が多い。あるいは逆に全くかけ離れて、今別にやらなくも良い大きな苦難を意図的に選ぶ人も居る。そのどちらにしても、自分に巡って来ている足元のことを避けて、「勝手」に楽をあるいは「勝手に」苦を選んでしまう。
  足元の事はストレスの大きさで判る。ストレスが大きくそして常について回っているからだ。そのストレスを無視するという事は、自分勝手に判断をしているという事と同じ意味だ。
  殊に経験したことを避けるならまだしも、経験したことがないのに判断できる不思議に気づかない人も多い。気づかないというより、それでほっとして幸せに思ってしまうようだ。そういう判断を多くの社長族がやっているようだ。私はその段階で社長アウト、人生アウトだと思っているが、実際に多い。社長だから偉いとしよう…偉いとして、その偉さとは何でも現場でやって処理し続けてきた事に基づくからではなかったか。それを現場から離れ、現場で起きている事の雰囲気を察知できなくなっても自分の主観を優先してしまえる…その段階で我がまま、我がまましたら社長はアウト、なのだ。
  同じように私達も大した経験もないのに勝手に判断する…。どう感じようが、来たものは全力を挙げて受け入れ、集中して乗り切るしかないのだ。その集中ひとつだって並大抵な事ではない。だからその癖をつけよと滝場では訴える。
  巡り来た事が何であれ、受け入れて最大の力で集中をして取り組む…それが生きると言う事だし、また学ぶという事だ。生きるとはこのように学ぶという事と同じ意味だし、学んだ先に到達する「なんとかなる…」という思いと出会うまで色々なストレスを受け入れ続けて行かねばならいのだ。そして「なんとかなる」と思えてヒトは安心して自分を生きるという事になる。
 
周りがどうあれ、出来不出来を超えて、安心して今を生きられるという事である。そこでは出来る出来ないは問題にならない。結果ではなく、やることが全てなのだ。やったかやらなかったか、集中できたかできなかったかしか問うものは存在しない
  集中して感じた事しか真実は存在しない。それが学ぶという事で、集中しないならば学べないという事だ。その意味で学びに本や学問は要らない。同じ皮膚感覚の積み重ねしか要らないのだ。皮膚感覚の無い物は想像できないのだから、本や学問は経験の積み重ねがあってこそ理解できるものだ。
  集中に関して言えば、好きな事は自然と集中できると思いがちがだがそれは間違いだ。ストレスがあるから自動的に集中できるのだ。冬の滝打たれは厳しく見えるが誰でも集中できるし、逆に夏は容易く思える分衆集中が難しい。楽しては学べない事が判らぬ大人が多い。
  巡り来たものは受け入れて勇気を出して最大の力で集中する…そういう親の姿を子が見ている事が大事なのだ。子供に残す財産とはそういうものだ。それが出来ない人ほど子供に豊かさを提示して済まそうとする。
  やるべきことに必死になってしがみついている事…それこそが子供が一番学びたいことだ。子供は、生きる勇気の持ち方を学び身につけたいのだ。親がやるべきことにしがみついていると、子もその様に努力する
  子は親の笑顔が見たくて頑張るのだから子は親を励まそうとしてやるべきことにしがみつく。子がやるべきことにしがみつくようになったら親がその様に子供に見えているということを意味する。そこまで頑張って普通の親・大人なのだ。



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