(毎月発行の『連絡紙』より)


●平成27年3月号

病気との向き合い方を見るとその人の人生観が判る。例えば熱が出たとなると解熱剤を飲む。熱を下げる成分が化学反応を起こした結果で解熱剤は効く。化学反応で効いてしまう。そして楽になって社会生活に戻る。でもなぜ熱が出たのか、その原因には手がつけられていない。原因が残っているのに治ったと言うし、納得する…そういう不思議人が多い。
  全ての症状は原因があって起きる。
  全ての症状はその原因を取り除くために起きている。症状は生理機能をまっさらに戻すための防御反応だ。だからピークに達すると自然と治まるその防御反応である症状を社会ではなぜか病気という。防御反応は好転反応であって、好転反応は違和感とイコールなのに、だ。
  ヒトにはどんな状況であれ生きようとする能力があって、その能力は恒常性維持機能と呼ばれている。無理なく原因を分解し排泄するシステムと言える。
  たまには強烈な異物が入ってきてそれを急速に排泄しようとして無理のない排泄が出来なくなる強烈な異物は外部からしか来ない。人体は必要なものを取り入れその老廃物を排泄するようになっていて、外部からの強烈なる異物の排除は不全にしかできない…それが後遺症である。さらには排泄能力自体が狂わされて死に及ぶことがある。
  人体が排泄できる物とは必要なものであり自然物質である。逆に排泄できないものは反自然物質つまり化学物質である。化学物質とは人工甘味料に始まって覚せい剤麻薬・医療薬にまで及ぶ。化学物質は全てが人体にとっては排泄しにくいものであるのだ。唯一、化学物質を排泄できる能力が備わっている。それは「発汗」能力だ
  発汗を悪いという人が多い。有益な汗と有害な汗の区分けができない医学者も多くおられるようだ。
  症状を病気と呼ぶが、症状は恒常性維持機能が働いている姿である。
  放っておけば、苦しい時を通り越して、いずれ治る。昔から言う「良薬口に苦し」であり、ヒトの学びから言えば「知は痛み」なのだ。
  それを楽になろうとして、異物排除の化学物質を用いる。薬によって自然物の異物は排除され楽になる分、薬という新たな異物を抱え込む。しかも本来不要で取り入れてはならない、排泄しにくい物質が体内に蓄積される。そして恒常性維持機能が狂い出す。それが対症療法である
  対症療法は症状を解消するが、症状の原因は手をつけない。だから対症療法では症状の原因と化学物質の蓄積が残る。楽になる代わりに、原因が野放しにされ不要で排泄困難な化学物質が蓄積されてゆく。楽になることを治ったとするから惑わされてしまう。楽になることと治ったとは何も繋がらないことに気づこう
  楽になったら症状の原因を治さねばならない、それをしないで直ぐに働いてしまう。楽になったら症状の原因を治す…それには、休むそして汗を出す、しかないのだ。
  医療にかかわらず生きることは、苦しいことが普段の姿なのだ。常にストレスを被っている…だから命は活動のエネルギーを持ち続けられ、だからヒトは生き続けられる。そして生き続けられるとは逞しくなれる事を意味する。
  …人生修行と言う言葉がある。修行は涯てがない。対して修業は目的があって達成すれば満足を得て終わりとなる。
  涯てなくストレスを受け続ける…
  だから歳をとって体力が落ちても慌てずにいられる。慌てず「なんとかなる」と思える事が修行であって、まさに人生は修行なのだ。
  滝に打たれたり苦行をしたりするのが修行なのではない。日々のストレスと向き合って苦しみ続ける…それこそが修行なのだ。



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