(毎月発行の『連絡紙』より)


●平成27年4月号

いわゆる就職浪人を3人雇った。3.11の年だった
  私の母校に求人にも求人に行った。「この生徒がどう思いますかね」とと就職指導の教師には熱意がなかった。どうせあの子は役に立ちませんから、という態度だった。対して他の学校は「とにかく見学に行かせます。必ず行かせます」と熱意はある素振りだったが。
  3人を採用したものの、不安に思って見ていた。仮に辞めていっても、人生の広がるきっかけを掴んでにして欲しかった…。そして今4年目を迎える。離職率の高い介護の世界なのに、3人とも一丁前、それ上に働いている。彼らがなぜ就職浪人になったのか、今も全く判らないでいる。
  おかげさまで私の施設には良い人材が3人は来てくれた事になった。
  「生徒がどう思いますかね」と言った我が母校の就職指導の熱意の無さをいまさらながら思う。
  求人難の時代だからこそ、しっかりと就職指導ができねばならない。だが大学にしても高校にしても就職指導は異常だと思う。
  事前に面接や会社訪問の時の為の説明会が学校側で行われる。それはそれで親切な事だと思う。
  だが、リクルートスーツという言葉がある通り、同じ服装になる。面接での椅子の座り方、座った姿勢、立った時の手の位置、などなどまでが皆同じになる。手の位置などフランス式になっている事を判っているのだろうか。手の位置を日本式でやったら評価されないと思っているのだろうか。そういうことすら関心なく、マニュアルで覚え込むのだろう。
  多くは一夜漬けなのだから、そこに品格など有りようがない。面接官が馬鹿にして質問してきたのはその品格が見えないからだ。品格のあり方を教えずノウハウを教えて済ます不思議にどうして気づかないのだろう。
  面接を受ける会社の程度を学校で推し量っているから、同じ指導になってしまう。
  そんな金太郎飴の学生を面接する会社も、その程度としか見られていないことに気づかずにて丁寧に応対する場合も多い。管理されやすい学生を学校も押し出す。会社は常識から外れない安全な学生を採ろうとする。そしてスケールの小さな会社に自らしてゆく。
  安全無事しか考えない会社など既に死んだも同然だ。なのに、業績が良いからと胸を張って、新人採用を行う。就職難の時代はそれでも良かった。だがそんな時代は終わった、何しろ人の数が少ないのだから。だが会社として実績が上がらねば優良な会社も減ってゆき、国が沈没してしまう。要は人材なのだ。
  人口が半分に減ったら、倍の働きをしないと現状が維持できない。国の人口が少なければ少ない程、人材としての優秀さが求められる。オリジナルな格好をし、それが板につくような学生生活を、なぜしないのだろう。もっとももこれは就職難・求人難の問題ではないのだが。
  小手先のテクニックで入社試験に受かって、どう人生が発展すると言うのか。そのような小手先の事が通じるような奇跡は一回こっきりだ。
  どれほど奇跡でも、それが永遠に続く訳がない。続いたとて生きることには何の関係もしない。『おれはラッキーの連続で何もしないで生きてこれた』としか言えない。言えたとして、恥ずかしい。ラッキーを幸せとする生き方こそが恥ずかしいのだ。
  そういう生き方を内実のない人生と決め付けるのは傲慢だが、だがそうなりはしないか?それを就職指導として「指導」できる学校も無責任だ。それを受け入れる学生も自分の生き方に無関心だ。厳しい言い方になるがどちらにも志が見えない。
  働く意義、働く楽しさ、社会貢献出来る嬉しさ、仕事を通しての学びの喜び、生きる楽しさ…。そういったものを会社が教えねばならない。
  3人の真摯な働き方を見ると、家庭ではそこそこ教えていた事が窺われた。学校は磨くべき部分を見誤っていたようだ。指導に従いやすい生徒だけに指導していたように思われる。
  熱意でなく安直さしかなかった。



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