(毎月発行の『連絡紙』より)


●平成27年7月号

新しい企画があって手伝いに呼ばれて半年以上になる。なかなか人が集まらなくて苦戦をしている。最近になって「なるほどこれじゃ人が手伝わないし寄り付かないわけだ」と気づいた。企画の中心の人たちに他人への思いとか社会への思いが希薄なのだと気づかされたのだった。というより自分の思っていることをやりたい、だけなのだった。
  企画の中に賛同できようがない事があり、賛同できないからそこは行わないと言う約束で手伝いをしている。それなのに、そんな約束を朝令暮改のごとくに勝手に変更をして、それでいて手伝いをしてもらって当たり前に思っている…なんでと誰でも思うだろう。   幹部が意地悪なのでも頑張れないのでもない。そこそこ身を粉にして動いているし、人の良さも十分にある。つまり人はそれだけで結果を出せないということだ。あるいは結果を思うように出せたとしても周りが認めないということだ。
  …それはなぜなのだろう?。幹部には自分のやりたいことは曲げない点が共通して見えていた。目標はどういう手段を使っても達成するという思いが見えた。目標を達成できれば何でも良いという考え方では周りは動かないという事を実証していた。
  つまり「やりたいこと」と「やるべきこと」は全く違うことなのに、それが不明だったのだ。「やりたいこと」と「やるべきこと」の区別は年齢に関係なしにできることで、両者の区別がつかないのは辛い事だと思った。
  やりたいことからは「理念」は生まれない。そして理念がなければ多くの人々が目尻を決して馳せ参じ、強力な力を発揮することにならないということだ。物事を行うに大切なことは、湧き上がる力によってということだ。その湧き上がる力を「活気」と称するが、それがなければどれほどの結果が得られても、間違いということになる…。
  例えば産油国の内乱に介入する超大国がそうだ。内乱はそれでその国が滅んでもその国民が解決すべきことだ。国際情勢上の不都合を理由に介入して収まったとして、内乱を起こしている国の人々に自国への思いが湧き上がるものではない。押し付けられた国際情勢の不都合から愛国心が湧き上がる道理がないのだ。
  活気とはそういうもので、理念からしか湧いて出ないのだ。そういえば、この企画団体のトップで理念と趣旨の別が判らない人は多かった。判らないから、やりたいことをどんな手を使っても達成し、それで良かった事にしてしまえる…。更には湧いて出る理念をルールとして決めてトップダウンできるものと錯覚する人すらいた。それが良い歳をした人の行動原理だったのは辛い。
  「なんとしてもやらねばならない思いを皆が共有する事」が理念である。 やりたいことを疑って疑って削って削って…残った思いを共有する、それが理念なのだ。残ったものが「やるべき事」で、だからその正義に皆が共鳴できるのである。だからこそ下から思いが盛り上がってだんだんと広がり高まってゆくのだ。共通の思いが下から盛り上がり広がって強くなってゆけねば、それは理念足りえない。
  理念の判らない人は、自分のやりたいことを疑えない。思った事をやりたくて実現の手段を選ばず、それを趣旨と言い換えてしまえるし、人を自分の思い実現の手段として使える。そしてそこに悪気はない…。だけど人は二度と近づかない。
  やりたいことをやるのはそれがどんなに苦しくても楽な事である。慣れているものは楽に決まっている。
  対して新しい事は慣れていないものだ。慣れていない新しい出来事に今までの慣れた処理の仕方は絶対に通用しない。その矛盾に気づけば新しい処理方法が自ずと生まれる「理念」はそうやって生まれてくる。だがその矛盾に気づこうとしない人は多い。何があっても今までの慣れた処理方法で行おうとする…そこから生まれてくるのは魂のこもらない形だけのものとなる。理念があれば魂のこもらない形だけのものは絶対に生まれないのに、だ



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