(毎月発行の『連絡紙』より)


●平成27年8月号

覚悟とは何かと思った。
  「広告スポンサーを減らして沖縄の新聞社を潰したら良い」という国会議員の発言が問題になった。確かに言論の府の議員の発言とは思えない。だが何か違うと思う人もおられるのではないか。
  あるいはこれで安倍総理は終わりになるかと直感した。あるいはとは言うが、やっと安倍総理の終わりか、と言う思いが強い。私には、それまで安倍総理の強権政治を批判出来なかったマスコミの追い風になったと思えたマスコミ陣がもそもそと政権批判を始めたようにしか見えない。安倍総理のそういう強権体質、的確にいえば子供の精神によるひとり親方な政治をなぜもっと早くマスコミは糾弾し続けて来れなかったか?と思う。
  マスコミにはそういう糾弾を含め、啓蒙すべき使命があるはずだ。追い風を確認してから糾弾する…腰ぬけ丸出しのそんなものを糾弾や啓蒙などとは言わない。そんな腰抜けであっては、マスコミ・報道人としての覚悟がないに等しい。もっと言えば、追い風を確認して糾弾する程度の覚悟だから国会議員にナメられてしまったのだ。民主主義を曲解する議員も議員だが、報道が公正でいたなら、議員先生ももう少し勉強していたのではあるまいか。
  言論の自由は憲法で保証されてはいるが、だから手をこまねいていて守られるものではない。憲法が保証したから無条件で守られるのではない。それが最高規則であればあるほど、保証されたものを守るという覚悟と守るための行動が大きく強く伴うものだと思う。それは国民一人一人が守るもので、私達の力による。そしてその代表が言論の府の議員先生であり、その監視するのが報道人のはずだ。議員先生を批判糾弾出来るのはマスコミ以外にない…それなのに覚悟の強さが普段から感じられなかった。職責など意識にない公務員と同じで、自分の生活安定のみの優先だった。
 先の戦争での「大本営発表」をそのまま記事にした失敗を繰り返してはならない。それが言論人の果たすべき最大の役割だ。
  国会議員の新聞の言論の自由を無視した発言は看過できない。だがその程度を議員として選んだ私達国民の自業自得というものだ。それと共に我が新聞社は公正中立を保って戦っていますという信用を得なければならない。
  先の特定秘密保護法案では彼らの覚悟の無さが見て取れた。言論人と言われる人達の行動に失望した。表現の自由・言論の自由を守ると訴えつつ、国会周辺の抗議デモの映像すら流さなかった。文化人と言われる人たちの声明を掲載するだけだったし、声明を読み上げた文化人がデモに参加したとも聞かなかった。その程度がこの国の言論人の覚悟なのだ。言論の自由のために特定秘密保護法案にどこまでも反対ではなかった。言論人としての生活権をまず確保した上で反対していた人が多かった。言論人の言論の自由を守る覚悟とはその程度なのか、と今でも思っている。
  今回の問題でもそうだが、広告スポンサーになっている会社の不都合を報道できている新聞社はどれくらいあるのだろう。スポンサー企業の悪口を新聞社は書かないもの、という不文律を以て記事を読んでいる読者も少ないようにも思う。戦後七十年の現代でも、ある意味大本営発表を広告スポンサーのためにマスコミはやっているではないか…だからあの程度の青二才の議員にナメられるのだ。
  覚悟とは何か。何があっても職責を全うする、その努力に対する物が生活費の支給のはずだ。現代は全く逆で、まず生活の安定、その為には責任逃れを第一にする…だったら仕事が求める真実は誰が守るのか?覚悟が問われる。



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