(毎月発行の『連絡紙』より)


●平成27年9月号

御嶽登拝が終わった。登拝すれば思いが叶い、霊的なパワーが授かる…と錯覚する人は案外と多い。現実を感じ取れないのは致命的だと思うがそういう人が多いのも現実だ。霊的なパワーによって思いが叶う…御嶽の場合はそれがご利益だと言って導いてきた。家内安全を願って何が悪い…悪くはない、自然の心情でもある。だがそれは自力で実現するもので、他力で実現しても意味の無いものなのだ。
  我が国随一の霊山ですらそういう現状なのだ。信仰のお山だから思いを叶えてくれるなどという他力の情けない思いを肯定してどうするのか。それを肯定してはならないという事の証明で昨秋噴火し、多くの人々に殉難を強いた。肯定できるならあの様な惨禍は起こさないで、さすが御嶽、という言われ方をしただろう。
  御嶽で修行した私が祈れば願いは即座に叶いますよ…そんな思いを迷っている人たちに植え付けてどうしようというのか。今流行りのヒーラーと何も変わらない。私の商売の為に客があってくれれば、客はその後どうなっても良い…それが御嶽、いや殆どの霊山の現状だ。
  生きるのはどんな場面でも自分であって自力なのだ。自力である事が最大の価値で、できる・できない、叶う・叶わぬなどどうでも良いものだ。自分が何もせずとも拝めば自分の利益を守ってくれる…神を自分の便利の為に使い走りさせてしまおう…そんな安直な生き方で良いわけがない。
  病気も貧乏も諍いも高級な霊から見ればどうでも良いことだ。
  高級な霊は宇宙の継続発展にしか関与していない。神は命を授けるだけ。その命をヒトは全力で使い果たすだけ、なのだ、神があろうがあるまいが、生きるのはヒト個人の力でしかない。自分が自分を生き切る事、そこへ導けないのがご利益信仰だ。不勉強とか信念の無さをご利益信仰の先達たちは反省せねばならない。先達という立場を思うなら、再出発を目指さねばならない。「自分を無心にして磨く」という発想を率先して持たねばならない。
  パワースポットなどと言われることに抵抗が無くてどうするのか。むしろ有名になって得したという感覚を持ってしまえる不可解が霊山を守る人達にはある。
 随一霊格一等の御嶽の最高霊場である松尾滝の再興を私達は二十年かかって果たした。でも他の先達達は滝に石像を滝に持ち込む程度で御嶽が戻るべき自力の世界に思いが行かなかった。信仰は満足する事とは違う。曖昧な心を見つめる事はあっても曖昧な心をよしとするものではないのだ。そこが判らずしてどうする。
  自力で生きる事を肯定できる先達を探そうと思った。でも全て空振だった。霊山は開山の師匠の死亡した時から現世利益の場になっているのかもしれない。例えば比叡山は最澄が死んだ直後からそうなった…比叡山が例えの全てなのかも知れないと焦った。
  ようやく一人の先達と出会えた。出会ったというよりやっと見つけたという思いだった。二十数年間山の中で一人暮らしをされていた先達だった。どんな超常能力があろうとも、価値をあらせるのは、自力でまっすぐ生きようとする価値観だ。いやそういう生き方をどれだけの期間身につけて来たか、という事なのだ。
  その先達と話をするために昨夏は三回御嶽に登った
  「拝み屋の山ではだめだと、青木先生に言われて、そうだと思いました。おっしゃる通りです。人というものへの思いも同感です」
  御嶽を修行の山、鍛錬の山に戻そうと意見が一致した。
  その矢先に御嶽が噴火をした。
  嶽修行の山計画はゼロの戻ってしまった。だがそれも良い。行く先は変わる事はないのだから。



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