(毎月発行の『連絡紙』より)


●平成28年10月号

 滝打たれを始めたのは昭和64年の元日、64年は何日もなく平成元年に変わったから、滝打たれ歴は27年と9ケ月を過ぎた事になる。
 最初の頃は合宿所とは山向こうの自然の滝である「再生の滝」で打たれていた。日曜日の朝に滝に向かう。同乗者は水原の町を抜けると急に押し黙ってしまう。滝に打たれる事が怖いからだった。
  滝打たれを続けるようになって水・木曜日以外は合宿所に向かっていた。合宿所に行って打たれる…それは変更する事のない物ごとなのに、生活の中でフッと滝打たれが頭に浮かぶ。頭に浮かぶ時、滝打たれは自分で決めた事なのに、なぜか必ず暗い気持ちになっていた。
 滝を見学に来られる人の多くは「滝打たれが好きなんですね」と仰る。あー、今の社会は好き嫌いが行動原理なのだなあ、とその都度思わされる。理解するには自分の過去の総体を押し当てて行う…。滝を見学に来られる人の「滝打たれが好き」という理解は『私は好き嫌いで判断し、好きなことだけやってきました』と言う事を暗示している。
  それでも理解しようと試みるのは良い方で、多くの人は理解できない事は真っ向から否定する…。だが否定する事で個人は生きる世界を狭くし、生き方を間違えさせてしまう。厳しく言えば否定する事を幸せと考えながら自分を窒息させてしまう。
  滝打たれを自分で決めたのに、滝打たれを思うと必ず暗い気持ちになる…それがいつの間にやら感じなくなった。嫌なのは事実だが、滝に打たれる事が生活のありきたりの事になってしまっていた。要するに嫌ない思いに引きずられなくなった。ただそれだけの事で、あいも変わらず滝と対面すると心は揺れる心揺れるから滝とは「対面」ではなく『対峙』するといってしまうのだ。
  恐怖を抱いているのは現実で、その現実が普段のありきたりの状態になって行った。だが普段になってもクリアできていないから、怖さはその都度よみがえる。ただ、怖さがその都度よみがえる事があって自分の普段なのだと思えるようになる。
  逃げていられないから向き合おうとしているだけだ。だから、積極的に滝と向き合っているとは言えない…あるいは逃げようとしない事がようやくに滝打たれを受け入れられるようになった、という意味なのかもしれない。
  だが今になって、常に頭をかすめる怖さがあると言う事は決して悪くないと思えるようになってはいる。
 ヒトが生きると言う事は常に自分を後ろ向きにさせ、停滞させる問題があると言う事のようだ。生きるとは成長・熟成すると言う事であって、それは自分を後ろ向きにさせ停滞させる問題があればこそ、なのだ。その後ろ向きにさせ、停滞させる問題をトラウマと世間では言い、不幸な事だと言う。
  トラウマは果たしてそうなのだろうか…。トラウマに克つには時間がかかる…この時間がかかる事を不幸と考える人は多い。だが時間がかかり、容易に立ち直れないトラウマは、その個人にとってはむしろ一番大事な問題なのだ。心が大きく揺れ、立ち上がれないほどの痛みは、自分の本性が揺さぶられたからだ。ヒトはトラウマと出会って初めて自分の本性と出会った事になるのだ。
  自分を後ろ向きにさせ停滞させている事が判るとすれば、それはすでにトラウマではない。後ろ向きにさせ、停滞させる事が「判る」のだからだ。判る以上はクリアできる。時間がかかって、その間苦しんでも必ずクリアできる…いや、クリアしなければ終われないのだ。避けて通る事ができても、自分の中心が抜けてしまっていることは実感できているはずだ。自分の安心を知るためにクリアして学ばねばならないのだ
  ヒトは巡り来た物事を避けては終わりだ。ごまかしなく生きねば、生きたことにならない。精いっぱいやってダメでも、精いっぱいこそ価値があると確信出来る。結果ではないのだ。全力を尽くせたかどうかにこそ生きることの価値があるのだ。




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