(毎月発行の『連絡紙』より)


●平成28年12月号

ヒトは自分だけの荷物を背負って生きるようになっている。荷物とは言わず運命という場合もある。生きるとは荷を背負うことであるが、他人の荷を背負ってみても始まらない。いずれにしてもヒトは身軽には生きられないようにできている。
  自分という個性があるからこそ、自分の荷を背負う事ができる。個性は自分が背負うべき荷物を背負う事によって磨かれて行く。周りからどんなに軽く見えても、担ぐ本人には十分すぎるほど重い…。そのようにできている。そのようにして自分の個性に目ざめ、荷物が変わる度に個性が磨かれてゆく。楽な荷物は荷物に属さない…個性と関係しないからだ。個性と関係するには自分の身に余る負担がなければならない。そうでないと自分という存在にすら気づかないからだ。
  生きるとは不本意な荷を次々と背負う事でしか無い。考えてみればこれほど不条理な事はない。どれほど善行を重ねても、あるいは我が侭のし放題でいようと、それらと関係なしに勝手に荷物が湧いて出てくる。公平さとか原則など存在させないで荷物が湧きでる…ヒトは常に自業自得の結果の中で生きてはいるが、良い事をすれば良い事が返ってくるものでもない。
  背負う荷物は常に不本意で不条理だから、それを背負って歩く事はつまらなく苦しく暗い…。だがそれを背負わない理由してはならない。
  自分を振り返れば、不本意な荷物が圧倒的に多いように思う。いや、思うのではなくそのようにできている。だから自分の個性が発達し磨かれて行き、自分が宇宙でたった一つの貴い生き物となって行ける。
  それなのに多くは周りの人と同じ荷を背負い、しかも同じ荷を少なく短い時間で担いで行こうとする。何のために…楽する為に?自分本位で生きたいために?。あるいはその逆にわざと重い荷を背負おうとする…
  何のために…自分が満足する為に?
  自分が磨かれようとするのに、自分の意思とか感情を取り込んでしまう…それは担ぐ荷物を自己決定してしまうことである。わざと軽い荷物を背負おうが、わざと重い荷物を背負おうが、自己決定したらその段階で、個性磨きではなくなる。ただひたすら何物かが指定した荷物を背負い、ただ黙々と歩き抜くしかないのだ。何かを考えても意味がない。ただ歩き抜く事でしか価値は生まれないのだ。
  不本意で不条理であるから、担ぐ人には重く感じられる。だが良くしたもので重荷があるからこそ、人はよそ見ができないのだ。よそ身をしないで担ぎ通す努力せざるを得ないのだ。そんな努力の果てに確信した価値観と出会えてしまうようにできている。
  重荷を避けることができる人も中にはいるが、から身で歩いてどんなに大きな満足を得ても、価値観の確信には至らない。いや至れないようにできているのだ。ヒトは重荷を背負ってしっかりと歩けば良いのだ。 
 重さの為にゆっくりとそしてしっかりと歩く…そうすると地面に足の置いた跡が凹む。凹んだものが足跡になって行く。その足跡がその人の実際に歩いたという証拠である。
  不本意で不条理な荷物は重ければ重いほど、全身までフラフラするから、足跡の凹みはしっかり深く残して行く。しかも重いほど周りを眺める力はなくなる。転ばぬように自分の足元をしっかりと見るしかない。そのようにして不本意で不条理な重い荷物は自分の足元を見つめながら歩くようにさせる…。目的地だけを見て最短距離を走ってみても、自分の足元は見る事ができないのだ…。
  確かな足跡は、荷物を選んでいては残せない。否応なしで背負わされるほど、確かな足跡になって行く。
  自分が選んで担ぐものはその段階で荷ではなくなる。否応なしで背負わされる物が自分の担ぐべき荷なのだ。
  …人生はそのように不本意で不条理な否応なしにできていて、尚その中を独力で往くしかないのだ。その否応なしを幸せとは言わず、不幸と錯覚して気づかないのは辛い。




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