(毎月発行の『連絡紙』より)


●平成28年1月号

悩むことは特別な事ではない。特別でもないのに、判るまで動こうとしない人は多い。 「そんなにあなたは頭がよろしいのでしょうか」と思ってしまう。そういう頭の良い人が大勢いる。『コンピューター付きブルドーザーと称された田中角栄と言う政治家がいたが、この人だって経験則で動いていた』と滝打たれでは言う。それほど人の知識とは経験にしか裏づけられないように「出来て」いる。出来ているということは、変えるわけにはゆかないと言う意味だ。
  人生が黄昏てきたせいで、原理原則がいやでも見えてくる。『知は痛み』は滝打たれの根本原理であるが、いやでも受け入れねばならないヒトとしての原理でもある。
  知を蓄えて行った暁に、ヒトは初めて心易い事が安心と違う事を理解するようになる。『安堵と安心は大きく違うし、全く違うものだ』と滝打たれでは訴える。だがなかなか、このことが判らない。と言うより、ほとんどの人が安堵を安心と呼んでいる…厳しい言い方になるが、安堵と安心の違いが判らぬと言う事は生き方が安直だという事になる。
  それはそうだ、知は痛みなのにその痛みを避けて幸せと思っているから、痛みすら感じさせなくしている…痛みがあることを予知できるから、危険から遠ざかるようにする。そして痛みがないから幸せに思ってしまう。痛みのない心易い状態を幸せだと思う…考えてみれば判るが、痛みのない心易い状態とは好都合でしかない。その好都合を幸せと呼んでいる事に疑問を思わない人も多くおられる。好都合程度のことを幸せと呼ぶ生き方が人生を卑小にしていると気づかないのは辛い。
  人生が卑小である証拠に、そういう人は逞しくない。すぐに自分ばかりが不幸と言う。そして好都合な事を幸せと言う。その実、好都合とは単にラッキーなだけであることに気づかない。ラッキーな事とは自らの努力が足りないと言う意味でもある。
  それはそうだ、痛みを遠ざけて思う通りの結果を手に入れるのだから…だがそれはあり得ない。結果とは痛みが積み重なって『初めて表れる世界』だからだ。意図的に作りだす結果などは結果ではない。
  …痛みが積み重なって、微妙な情感が生まれて、それが明確に区分けされて、原理原則となって初めて結果となる。その時に、初めに思った結果が到達点になっている場合は少ない。いや、まず無い。初めに思った事が得られるとすれば、それはどこか作為的に生きていて、無視やラッキーを作り出しているという事だ。だからその不自然に安堵することがあっても絶対に安心出来ない。多くは(安心と呼ぶが正確には)安堵だから、すぐに不安が持ち上がる。
  心易いとはそういう事で、常に不安がついて回る。どんな素晴らしい結果を手にしたとしてもラッキーである証拠に、常なる不安がついて回っている。更にはそのラッキーを活かす知に欠けているから元に戻るときはもっとひどい状況に陥る…。
  不安に苛まれたくないなら、常にドキドキハラハラしていれば良い。と言うか、生きるとは常にドキドキハラハラするように出来ているのだ。だからヒトは学ばねばならないし、生きるとは学ぶ事なのだ。
  滝打たれでは「まず動け、当てずッぽうで動け。失敗しろ」と言う。多くの人それができるまでには長時間を要してしまう。「何をどう失敗すれば良いのか」と言う人すらもいる。動くのに時間をかけないためには勇気がいる。多くは勇気を『貰った』と言うが、それはあり得ない。そんな傲慢な生き方でどうする…勇気に失礼だし、命に申し訳がない。
  私は不幸だから動けないと多くは思っている。ヒトは再生するから成長するのだし、再生は壊れる・壊される事からしか生まれてこない。痛いから動く、痛さを当然として痛みに苛まれながら動く…それが学ぶと言う事だし、すなわち生きると言う事だ。『休めは周りが言う言葉で、自分は痛さを感じることを休んではならない』と滝打たれでは言う。



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