(毎月発行の『連絡紙』より)


●平成28年6月号

打たれに来る人の中には、人様の相談事を仕事にしておられる人もいる。そして人様の相談事が仕事の人の大抵は、滝打たれが続かない。…続く訳がないと見ていて思う。
  自分を壊さねば滝打たれにはならない。何よりも自分を壊さねば学べないようにヒトは出来ている。人様の相談にあずかる人が滝打たれを続けられないのは、今の自分を壊さないで学ぼうとするからだ。続かない…それは滝打たれに限らずなのだ。
  滝打たれに限らず何事につけ、物事が続かない人には、今の自分を守りつつ自分の上積みをしたいという共通項がある。
  「幸せはいくつ積み重ねても大きな幸せにはならない」…滝打たれで良く言う言葉だが、わからない人が多い。幸せと出会いたいなら小さな幸せ・今掴んでいる幸せは捨てねばならないがそれを手放そうとしない。
  何事もそうだが、一つ捨てねば一つを得られない。良い事を幾ら多く積み上げても新しい出会いにはならない。新しい出会いにするには、良し悪しの積み重ねではなく、それまでの自分を捨てねばならないのだ。
  それまでの自分を捨てるとは、それまでの自分を変えてしまうという意味になる。自分が変わってこそ新しい出会いになり、新しい出会いにしてしまえるのだ。
  前述の、人様の相談事にあずかる人達が続かないのは、自分を変えようとしないからだ。良い事や為になる事を重ねて行っても、それを受け入れる自分の中身が変わらない以上、絶対に何も変わらない。物ごとの評価が何であれ、やった事の成果を在らしめるのは、要はそれを受け入れる人の中身にある事になる。
  何事も積み重ねが大事だが、なぜ積み重ねねばならないのか…それは、自分の今までが壊されるには、今までやった事のない行動を積み重ねて行く事しかないからだ。得意な事をやったって自分が変わった事にはならない。今までやった事のない行動の積み重ねは、無意味とか苦手とかに思える。そういう今までの自分が生きてこなかった世界の積み重ねこそが求められるのだ。簡単に言えばストレスの積み重ねである。
  …落語家が、師匠に稽古をつけて貰う為に弟子となる。だが来る日も来る日も、稽古ではなくおさんどんを繰り返させられる。無意味じゃないかと思う事を大真面目にやる、そんな日々を積み重ねて行く…だから今までに気づかなかった目線を手に入れられる。そのようにして手に入れる今まで気づかなかった目線こそがどうあれ師匠と共通の目線なのだ。つまり初めて師匠と人格を共有した事になるのだ。その上で、師匠の人格を肯定しようが否定しようが、そこから先は自分の芸の問題と言う事になるのだ。
  このようにして見ると、良い事や為になる事を幾ら重ねて行っても、それを受け入れる自分の中身が変わらない以上、絶対に何も変わらない事が判る。問題点に気づくまでの苦しさで自分の中身が変わり続ける…いや苦しさを受け続けて自分が変わった時、問題点に気づけるようになるのだ。
 苦しい中に居続ける事でしか核心は見えてこないように出来ている。だからこれは滝打たれに限らず、全ての事に言える今の自分のままで物事は学べないという事だ。滝打たれと言う手法で自分が変わるのではない。今を否定出来て、いや否定させられて、初めて学びはスタートするのだ。滝場に来て滝しか見えないうちは、何も変われないという事だ。
  学びのテーマが判るとはそういう事で、気づくと言う事は本当に苦しい事なのだ。だが多くは、今までの自分のままで新しい真実を手に入れようとする。だからこそ真実の重大さに至れないでしまう。
  滝打たれでいう「自己破壊」とは、自分の今までの安穏な生活を自分で壊す、だけの意味でしかない。
  自分の生活を自分で壊し続けて初めて新しい真実に気づける…。そのようにヒトはできているのだ。今までの自分のままを守って学べるという事は絶対にないのだから。




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