(毎月発行の『連絡紙』より)


●平成28年7月号

教会では教祖が編出し残して下さった健康法を行っている。本来は御祈祷なんぞが布教師としてやるべき事なのだろうが、筆者は教祖以上にそこはやる気にならない。『思いが叶えば幸せ』という考えからは何も生まれない。神なる存在を人間のしもべにして満足する事を拒否する…どんなに満足を得たって、そんな事で救われる訳が無いじゃないかという思いに筆者は凝り固まっている。
  その健康法にしても『早く痛くないようにしてください』と仰る人が多い。切実で本音だとは思うし、実際に苦しいのは確かだ。だが…
  難儀な事が苦であって悪いことだと信じている人は多い。楽である事が健康であると思いこんでいるようだ。何の根拠で楽な事が健康なのですか?と問うたら皆さんは一様に「はあ」という怪訝な顔をされる。
  更には楽な事が健康と思い込んでいる人に限って健康にならなければ行動出来ないと信じ込んでいる。永遠に痛みのない健康状態など有る訳が無い。だからか、不健康を行動しない理由にして済ませる人も結構おられる。厳しい言い方だが、健康が回復しなければ活動できない人は永遠に活動できない。そしてそういう人は自分十分の環境でない事を自分が行動できない理由にできてしまう。周りが整わないから・周りが悪いから私は行動できません…と。
  健康はあたかも教育と似ていて、環境の良し悪しなぞを出来ない理由にならないものである。それなのに、良い環境に整えようとするし、その結果、ひ弱な人しか造れない。ひ弱な人を作ってしまうのは、自分の生き方を周りと比較する事でしか理解できない証拠でしかない。
  身障者であった教祖をみていていつもそう思ってきた。「病人だもの具合悪くて当たり前」とは教祖の口癖だった。
  病むも病まぬも日常の風の吹きように良く似ている。北風であろうが南風であろうが、休む理由にはならないし理由にしてもならない。
  人生は災難に遭い続けるようなものだ。災難と言う想定出来ない出来事から学ばねばならない。いや、災難からしか学べないのだ。将来を想定出来ない出来事は、生きて行く上で避けてはならない事件なのである。
  病気に限らず自分だけが味わう苦痛は自分だけが学べる不便である。不便であるが、この不便は決して不幸ではないのである。多くの人はこの自分だけが学べる不便を不幸と言うが、不便は幸・不幸と関係しない。不便は学びの対象でしかないからだ。
  学びは常に今が勝負なのだ。だから自分だけが学べる不便を先送りしても意味が無い。その不便な事件に際しては病むも病まぬも関係しない。
  床に伏していても向かって行かねばならない。伏していても意識は向かって行けるのだ。だから多くは病んでこそ学べるものでもあるのだ。
  更に言える事は病気も健常であるから必然として起きるものなのだ。
  病むという変化は症状が起きるという事で、症状は好転反応の裏返しでしかない。その好転反応が発揮出来なくなった時にヒトは死に及ぶ…つまり「症状を有する=病む」とは健常な証拠であって、病気の苦痛はただの一過性の不便というものでしかないのだ。
  だから苦痛は生きていればこそ、ついて回るものと言える。人は「苦痛=ストレス」から学びを始める様に出来ている。そして学び終えた時「苦痛=ストレス」は解消され、好むと好まざるとに関係なく、逞しさを得てしまう。逞しさを得てリセットされる事で学び終えたとも言える。
  病む事は日常の事でしかない。その日常の病む事の苦痛を理由に自らを休止させる…休止にできる精神状態は気が低下してしまっているからだ。その低下は気が病むから起こるのであって、正に病気とは気を病む事しか意味しない。病気に限らずヒトは現状が壊されるから現状打破の活動を強いられる様になっている。そして今までにない大きな力が発揮される様にもなっている解決とは自分が変わる事だが、意味は「まず壊される…」と解釈するのが正しい。



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