(毎月発行の『連絡紙』より)


●平成28年8月号

教会へ相談に来る人の多くには、友達が少ないと言う共通項があると感じる。相談ごとに限らず、見回すと友達の少ない人が多いように思う。
  友達関係になると気を使うのが煩わしいからという。でも何ごとにつけ人間関係は煩わしくて面倒にできている。3分後しか考えない人がいれば、1週間後を考える人もいるし、10年後を考える人もいる。ネイティブアメリカンは7代の孫の事を考えて判断せよ、と教育されるらしい。その7代先の判断基準でも、それぞれで違う。何より考え方はその人の生きて来た偏りに依るのだから、一人一人違って当たり前でもある。
  友達は煩わしくて面倒なので、だから友達は不要だと言うのであればそれは正しくない。
  煩わしいから友達は不要だ、と言うのは一人である事を知らない人の考え方である。気を使って煩わしく思えてもそれ以上に快くいられる…
  それが友達というものだ。そこまで丹念して手を加えてこそ友達は生まれる。初めから気を使わないで済む友達はいない。あるいは丹念し続ける存在が友達とも言えよう。
  孤立したくないと思う人は、一人にならない為に人間関係をキープしたがる。孤立しない為に自分の本心と向き合う事をせず、自分の気持ちに嘘をついても一人になる事を避けようとする…大勢の中にいられる事がどんな意味を持つのかなど考えない。ただ一人にならなければ良い…と思う。それほど孤立を嫌がる。
  それだったら一人でいるべきだ。所詮人は一人と思っていれば、自分の本音から色々な事が見えくるのに、だ。それもまた、煩わしくて面倒な事なのだ。孤立した事がないから孤立がなおの事、恐ろしく煩わしく面倒な事に思えてしまうのだ。
  孤立する事がイヤなのに、煩わしい思いも面倒をしないで友達を作ろうとする…。相手の顔色を見て態度を変えるから相手は信用しなくなる。相手に好かれる事を言おうとするから、自分を主張しないで済ます。自信があってもなくても自分をそのままに出すしかないのだ。
  話し方がそうだ。自信のない事や気まずい事だと小声で話す人がいる。確信していないから小声でしゃべる。あるいは自分の考えが少数意見だと思うから小声で話す。不明な事こそ大声で話せないと学べないのに、だ…自分が恥ずかしいから、話を聞こえないように話す…煩わしい事や面倒な事と普段から付き合っていないから、そうなる。それが周りに迷惑をかける事より、当座の自分が恥ずかしくなければ良いのだ。そこに周りが引いてゆく原因がある。相手に伝える為に話をしているのに、伝える事の何倍も恥ずかしくない事を優先できる。つまり相手より自分が当座であるのに可愛いのだ。
  いつも自分中心で物事を処理しようとする…だから同じように気を使いたくなくて一人でいる事の楽を選んでしまえる。大事なのは当座の自分が楽でいられる事。大事なのは友達ではなく、常に当座の自分なのだ。
  当座の自分が大切なのは孤立したくないからで、その結果、本来の自分を自ら孤立させてしまう。そして周りと接触しなくして…、あるいは、相手の心証を悪くしないように勘ぐって推理をし話をし行動する…どっちにしても、相手の事より当座の自分の煩わしさからの解放とか面倒しない事の方が数段も大事なのだ。その結果、生きる世界を自ら狭くしてしまう。どっちも社会の広さが判らなくなる。そして社会の奥行きが不明となり、自分で社会を狭くして生きる結果となる。
  その結果、頼りとする人と出会えなくなる。頼りとする人など本来は不要で、そういう為に友達が欲しいのではない。尊敬できて自分の生きる背骨の歪みをまっすぐにする事を示してくれる安心感を湧かせてくれるのが友達じゃないか。世の中を広く生きようとするからこそ、色々な不本意に出遭う。それが人間関係なのだ。だからこそ学びが生まれるし、人格が高まって行くのだ。世の中が一筋縄に行かない事を教えてくれるのは何よりも友達なのに、だ。




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