(毎月発行の『連絡紙』より)


●平成28年9月号

御嶽登拝は今年で四十四回を数えた。初日の事だ。
  ロープウェイを下りて『六根清浄』と怒鳴って歩けぬ姿が情けなく、憤っていた。知る人がいない山の中で、すれ違う全くの他人と違う恰好をし違う行動をする…その為に来ているのに積極的にやろうとしない。やろうと思わない…その程度の事を恥ずかしいとかカッコ悪いと思う情けなさに腹立っていた。その腹立ちはロープウェイを下りて始まった訳ではなく、その前の里宮の石段登りの時から、わだかまり出していた。御嶽山中で『六根清浄』と怒鳴るのは我々だけだ。みんなは何のためにここに来たのだろうか…という思いでわだかまっていたのだ。
  お金をかけ、手間をかけ、そうして御嶽にやって来て目的を果たせない…。やる前に自分で判断をする傲慢さ…今ある事が因縁の結果なのに、それを自分で判断する。自分の意に合う事は楽しい嬉しいでやれる。だから押しつけられた否応なしの事が出来ない。そんな自分の普段のままでいる、あるいはそこに事に気づかない…その程度の覚悟…それが一番カッコ悪く恥ずかしい事だし普段から言われているのに、できない…そういう思いが私の中にはあった。
  思えば最初の修行始めとなる『黒沢の里宮』で声が小さいと毎年私に言われる。声の大小など私にはどうでも良いのだ。それによって修行の成果があろうがあるまいが私の責任ではないのだ、だがそのように自分で判断して来たにも関わらず不味い事は避ける…その程度の覚悟に気づかないのは悲しさを通り越して笑ってしまう。
  よその団体の多くはロープウェイを下りると世間話をしながらぞろぞろと山中に向かう。『六根清浄』と唱える団体もあるが、申し訳程度の声だ。そうやって満足して下山する…だからそういう人には変化を起こせない。満足する為に御嶽に来てそれに疑問を思わないのは辛いと常々思ってもいる。社会の行動基準が満足にあるのだから仕方ない…だが、だからこんな社会なのではないか。
  …昨年、登る前からリタイヤした小学生がいた。その生徒は今年も参加した。いつ脱落するだろうかと皆が思っていたようで、何かと励ましの声をかける…すると涙を流して泣く。だが決して歩きを止めようとはしなかった。泣きながら遂に昨年のリベンジを果たした。
  リベンジは自分でしかできないし登り切る事にあるのではない。そのヤワな自分が対象なのだ。ヤワな自分にリベンジせねばならなかったのだ。去年ダメだったから今年は行かない…ではリベンジにならない。ヤワな自分への屈辱とかふがいなさを感じる事からリベンジは始まる。そして否応なしで行動すれば済むのだ。屈辱とかふがいなさがある限り、いつかは果たせてしまう。…こうして見るとリベンジとは言うが、言葉を変えれば自己破壊・自己変革である事だし、学びである事が判る。
  子供は強制を避けられない。対して大人は避ける事ができる。立場や金銭などを使って幾らでも「やらない口実」を作り出し、やらない事を実現させ、さらにはそれを幸せと呼ぶ。楽であれば楽しく、楽しいのだから幸せ…それが多くの大人の価値観である。そういう大人はだから、泣く子供には中止をさせる。自分が泣いてまで物ごとをやり遂げた経験が無いからだ。例えあったとしても、その苦しさを味あわせたくないと考える。泣く子に強制させなかった事を良しとしてしまうし、強制しなかった事で周りから立派な人格だと言われて喜びにする。正に子供を大人が浅知恵で汚染してしまっている。子に対する責任など失念している大人が多いということだ。
  物ごとは落ち着くところにしか落ち着かない、それが解決というものだ。だから解決の殆どは、最初に不本意と思ったところにしか無い。『ないよりあった方が良い』と言う考え方が社会にあるが『ないよりあった方が良いというものはない方が良い』で現実は構成できているのだ。その現実を避けて解決と向き合わない大人は多い。問題は大人なのだ。




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