(毎月発行の『連絡紙』より)


●平成29年10月号

 ヒトはやるべき事をやって成功しても、周りから受け入れられるとは限らない。第一、受け入れてもらえる事が妥当であるとも限らない。それだからこそ、ヒトはハッピーを目指して生きねばならない。
  しかしハッピーとは言うが、ハッピーと幸せとはイコールではない。ヒトは幸せになるために生きていると多くの人は錯覚しているが、それは大きな間違いだ。幸せや不幸などは人生の一瞬の風景でしかないからだ。逆に言えば多くの風景を見られたという事が豊かな人生と言う事になる。そして豊かさこそ、ここで言うところのハッピーから生まれるものなのである。
  幸福と不幸を数多く味わってこそ豊かさの量が増えるもので、幸も不幸も味わおうという思いこそが実はハッピーそのものなのである。
  ヒトはハッピーを実感する為に生きている。ハッピーと一瞬の風景である幸せとでは大きく違う事に気づかなければならない。それなのに多くは一瞬の風景である幸せをハッピーと思いたがる。それは幸福であってハッピーではないのだ。
  しかもその幸福を自力ではなく他力で実現しようとする…。自分がなにも変わらずにアクションを起こさず、思いが叶って欲しいと思う人は実に多い。人生は日々新しいようにつまり日々苦しく出来ているのに、今日の明日も明後日も、昨日と同じ事をして対応できると思っている。いや、思わなくても対応させようとする。だって楽なのだもの…。
  それは単にラッキーなだけでしかない。だが昨日まで慣れ親しんだ楽な事で今日という新しい物ごとに対応出来る訳がない。人生は常に新しい事との出会いで成り立っていて、この新しい事とは絶対に楽な訳がない。つまり人生は常に楽していられないもので、だから学べるし逞しくなるし成長する…学び逞しくなり成長する(更には安心を見いだしてゆく)経過こそがハッピーなのであって、それを省略する事を正式にはラッキーと言う。だからラッキーは周りは認められても、その内容は評価されない。と言うより元々評価されるべき内容すらないのだ。それを思い通りになったから評価されると思う…甘さ以外の何物でもない。
  今の自分を受け入れてくれと言うが、努力すらしていないと周りは見ていないし、それが事実の姿だ。例えば仕事を認めて欲しかったら、今までと違う仕事を積み重ねろ。結果が出るまで積み重ねてみろ…それでも認められないのが仕事という物だ。
  新しい試みをしないで、認められる訳がない。仕事相手が幾らボンクラでも、そこは感じ取れる…だから認められないのだ。
 今の自分を受け入れてくれというが、努力もしないのに認めよ、と言う。今まで通りの事をやって認められようとする事自体が周りにとっては迷惑なのだ。できなくともやるべき事をやって、やり続けてナンボのものなのだ。
  周りが誰も認めないとなるから、最後は夫婦の単位で認め合うしかなくなる。その為に夫婦があるのだと都合良く思えてしまう。だがそれを夫婦の機微と言えたとしても夫婦の愛情とは言わない。だからお互いに認め合えない事が不満となって行く。
  よしんば、そういう組み合わせの夫婦が成立したとしても、周りからは排除される。そういう組み合わせの人達は、排除された時に私達ではなく回りが悪いと必ずいう。仕事にしても社会生活の在り方にしても同様なのだ。白馬の王子様に期待するのはありでも、ラッキー以外に全く意味がない。評価を受ける事は大した意味を持たない。評価は自分が自分で行うしかないものだからだ。
  ハッピーを目指して到達できなくても、ラッキーで実現できた事の何百倍も価値がある。ラッキーを目指した段階で生きたとは言えないのが人生だからだ。ハッピーは目指し続けるだけでハッピーになっていられるものである。幸せという通過点であろうが失敗という通過点であろうが、幸不幸を十分に味わって生まれる充実にしかハッピーは存在しないものだからだ。




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