(毎月発行の『連絡紙』より)


●平成29年11月号

「自分を変えたいので、滝に打たれさせて下さい。その為に色々と教えて下さい」と電話が来た。自分を変える事がどういう理由で滝打たれで可能なのか、打たれた事のない人がそのように決められる不思議をいつも思いつつ、そういう申し出の相手をする。誠にその申し出の論旨は素晴らしい…だがそういう人ほど信用がならない。経験もないのに、経験した人の話を聞いてでもないのに、自分でジャッジメントできる…そういう人は多いが、そのどこを信用して良いのか判らないからだ。
  ともあれ「では〇月〇日においでなさい」となった。受話器を置いて間もなく、この人から電話があって「〇月〇日はどうも時間的に難しい…」という。「仕方ないね、でどうしたいの、いつなら良いの…」と、こちらとしては言わねばならない。始まったぞ、と思いつつ、改めて別の日に、となった。
  深夜になって今度はメールで「宿泊せねばなりませんか?」と来た。「任意ですよ、そこまでこっちは関わりあいませんから」と返信した。やった事がないから何を心配して良いのか判らなくて、だから全てを心配してしまう。本来ならば、色々聞く段階で結果は見えているのだ。本当にやる気ならば、聞くまでもなく「やります」しか答えはないのだ。経験がないのだから聞いたって仕方がないはずだ。聞いたってイメージの浮く訳がないのだ。そういう筋もへったくれも判らない人ほど、実は何でも聞いてくる。そして何事もそうなのだが、完遂できるわけがない。
  案の定、翌日「体調が悪くなったので、また別の機会に…」のメールが来た。「やっぱり、来ましたな」。
 体調について言えば、悪くなるのはけっして嘘ではなく、体調の悪い原因が自分の精神にあると判っていないのだ。あるいは判っていても実際に体調が不良になるのだ。今を自分でジャッジメントして生きている気でいる…、そこに精神を病む原因があるのだ。
  精神を病むと言うと言い過ぎだと言われそうだが、果たしてそうだろうか。精神の病が精神病院で治る事があるのだろうか…生き方を変えれば簡単に治るのに、薬物で異常な行動を押さえて、それで治った事にしている…それが殆どではないか。
 生きるという必然から外れていて、それをして生きていると思っている…だから病むのだ。つまり病むのはヒトとしての当たり前の行動ができない事に原因しているだけなのだ。精神が先天的に偏っているのは仕方ないし、それを特に不都合と思わないなら病む事はない。そうではなく多くはヒトとしての当たり前ができなくなっているだけなのだ。一度楽すれば取り戻すのに2倍難儀をする。二度楽したら4倍難儀をする…その難儀を病気と自ら言う。それをして自ら持病という。難儀を意識するだけの気の痛みでしかない。正に病気、気の病なのである。 
  だがそれを「病気だから」にして良いのだろうか。ただ緊張している反応でしかないじゃないか。普段と違う反応をしているから異常で、異常だから病気…それこそが未熟な自己の判断でしかない。
 ヒトは緊張するから状況を克服するように出来ていて、それが緊張した時の生理状態でしかない。つまり異常でも何でもなく、ただ生理機能が普段と違っているだけだのだ。後はその緊張状態で事を起こせば済むのだ。一度楽したのだから2倍緊張した生理機能となり、二度楽したら4倍緊張した生理機能になる…これらは病気ではなく、異常な高まりでしかない。楽しては病気だけでなく何事も治らない。薬で体調は不良でなくなるが精神が益々不良になる。精神の不良で、行動の場所が限定されて社会性を失って行く…自らそうしている事に気づくべきだ。
  ヒトは清水(きよみず)の舞台から飛び降りて成長する。清水の舞台から飛び降りる時にストレスがあるから、怪我なくクリアできる。ストレスがあって、ヒトの生理能力は高まるように出来ているのだ。清水の舞台から飛び降りる時のストレスに慣れる事を成長・学びというのだ。




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