(毎月発行の『連絡紙』より)


●平成29年12月号

初冬の御嶽山の滝打たれ11番勝負はドキドキする。ドキドキは、怖いからである。怖さのあまり憶する気持ちになりそうになる。
  だが気弱は仕方ないとして臆してはならない。心が正しくあれば、気弱も強気も関係がない。正しい事とは前向きでやり切る覚悟をして行動することでしかないと判る。
  夏登拝でもそうだが、一歩目を歩いたら歩き切るしかなくなる。覚悟する事は周りではなく自分だけの問題で、全うに丁寧にやり切るしかなくなる。当然にそれは目標であって、自信がない。だから気が重くなる。今夏も歩き始めの行場小屋で「行くぞ」と皆に檄を飛ばした。それは何よりも自分への檄であった。
 一歩出してしまえば、もう引き返せない…中途で斃れようとやり切る事…自分にはそれが唯一の価値となる。進んでしまえばやり通すしか無く、やり通してみれば、案外行けた、で終わるのだ。全ての物ごとは、真剣であればある程、第一歩を踏み出す前が最大のストレスになっているのだ。まさに…人生そのものである。
 一方、人生をその様に思わない人もおられるようで、そういう人は行けたという結果とかその達成感で終わりにできる…人生は、案外行けた、というものばかりなのに、普段からやり通していない人は行けたという結果で喜ぶようだ。
 登山や滝打たれと言う修行だけでなく、全ては第一歩を踏み出すまでが難儀にできている。そしてこの難儀さに負ければ可能性がなくなる。この難儀さを無視して出て行けなければ自らが可能性をなくしてしまう事になる。それがなんであれ、可能性は自分が自分の都合で決めているに過ぎない…と言う謂れである。
  可能性は自分の勝手な都合でリタイヤしているに過ぎない。生きるとはやり通す事しか無く、やり通してみれば、案外行けた、で終わるものなのだ。やった事のない人はその事績に驚くが、やり終えた人には普通の事という認識になっている。
 繰り返しになるが、自分の勝手な都合でリタイヤしたその結果で可能性を自ら失ってしまうに過ぎない。ヒトは皆可能性を無限に持っているのだが、その可能性を閉ざすのは周りの環境ではなく、第一歩を踏み出す前のストレスに憶してしまう自分にしか原因はないのだ。
  リタイヤ理由が自分都合である事は、周りからみれば良く判る。本人からしてどんなに正当なリタイヤ理由だと言ってみても、周りから見ると自分だけの都合を並べているに過ぎない事ばかりである。
  だから可能性を自ら失う人は人間関係でも脱落する。それも当然で(よくもまあ、あれだけの量のリタイヤの理由を見つけてくるなあ)と回りでは思うからだ。それは、自己都合を最優先している生き方が回りからは見えるからだ。当然そういう人と真面目に付き合おうとする人は少なくなる。いわばお情けで付き合いしてもらっているのに、対等な関係だと錯覚できる不思議がある。
  可能性がなくなるのは、行動をしないからだ。物ごとの殆どは、丁寧に行動をしてその行動をやり通せば案外と簡単だった、で終わるようにできているのに、だ。
  不可能は臆病が生み出す。臆病が踏みださない為の都合を見つけ出させてしまう。だが憶病なのであって、気が弱いのではない。気が弱いから人は異常な力を発揮できるようになっているのだ。一歩踏み出してピンチというストレスを感じればこそ、いわゆる火事場の馬鹿力が自然発生するようにできているのだ。
  弱気こそ危機想定の最大の武器で、危機想定こそヒトが生存を続けるための最大の武器であったし、これからもそういう生理は続く。つまり弱気こそがヒトの最大の武器と言える。
  考えず動け、とは滝打たれの言葉だ。動いてから考えろ、も滝打たれの言葉だ。ヒトは気が弱いから力が出る。気を強くするのでなく、弱気の分だけ臆病にならなければ良いのだ。心は正しくあれば、気弱も強気も関係がない。正しいとは前向きでやり切る覚悟ができている事で、否応なしを普段とするだけの事なのだ。




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