(毎月発行の『連絡紙』より)


●平成29年1月号
 心配事のない人はいない。心配するとドキドキさせられてしまうと思っている人は多い。そうではない。心配事には自分の体が自動的にドキドキするのである。更に言うと、ドキドキするからヒトは学んで逞しくなって行くのである。知は痛みで、ヒトは経験則の生き物である。自動的にドキドキした結果、その心配に慣れて行きドキドキしなくなる。それが学ぶという事で、ヒトは学んで心身が逞しくなって行く存在なのだ。
  その逞しくなった数が増えて行って、「なんとか生きられる」と思うようになる。「なんとか生きられる」と思えること…それが安心と言う世界だ。「なんとか生きられる」と思えることはまた「自分だけでない、皆がそうなのだ」と実感する事であって、学びの究極は一種の悟りとなってしまう。何も宗教的な悟りだけが悟りなのではないのだ。
  逞しくなった数が増えて行ってヒトはようやく安心に至る。つまり安心するには長時間が必要なのだ。1つを判ったから安堵する事はある。安堵があっても安心できるわけがない。安堵は幾ら積み重ねてもドキドキから解放される事はない。安堵を得る秘訣があったとしても安心を得るのに秘訣など無いのだ。何人分も生きて、その分だけのドキドキを知ればこそ「なんとか生きられる」と強く思えるよううになるのだ。
  生きるとは常にドキドキしていることだ。ヒトはストレスを持ってこそ生きていると言える。ドキドキする事が普段だから生きている事になる。ストレスがある事が普段という事は、ヒトは生まれながらにして学び、逞しくなるようにできているという事だ。ドキドキしたくなかったら生きる事を放棄すべきだ。
  巡り来たドキドキをどうあれ受け入れる…何度も何度もドキドキさせられる…これでもか、これでもかと同じ事にドキドキさせられる…それが一日と言う事だ。そんな一日が続いてゆく事で、そのドキドキのある事が普段の一日となる。普段の事と思えるようになった時、ドキドキの度合いが減って行く。ドキドキに慣れる…それが逞しくなるという事だし学んだという意味になる。要するに巡り来た事から逃げねば済むのだ。
  過去にクリアしたドキドキが少ない人は自分ばかりがドキドキしていると思ってしまう。そして「心配だから・どうして良いか判らないから」と言って、うずくまってしまい、ドキドキの世界に出て行こうとしない。
  一度うずくまってしまうと、大したことでもないのに次もうずくまるようになる。どうして良いのか判らないとか解決策が判らないと言って動かない。だが判っていればドキドキなんかしないのだ…。
  初めての事で実態が判らないからドキドキするのだ。ドキドキの世界に出て行って泣いていれば、実態が見えてくる…それで済む問題なのだ。ヒトは泣いて通過する世界を沢山経て成長する存在なのだ。
  判らないからヒトは生きていられる。判らないからドキドキして、そして自動的に成長させられるのだ。
  どうして良いのか判らない・解決策が判らない…それは生きて行く常の姿だ。それが自分だけの特殊な問題であったとしても、解決策が判らないのはヒトの宿命なのだ。
  動けないで心配事を日延べにする。日延べにして今やるべき事を停滞させて、何とも思わない。むしろ悩んでいるから、停滞を権利のように思っている。悩んでいるから仕事も・交際も・家事も・子育ても中途半端で済ませる…挙句に、手伝ってくれない回りが悪いと言いだす。
  時間は常に今すぐ動く事ようにしかできていない。今すぐ動くから失敗するし、失敗からしかクリアは始まらない。それは万人に共通の事だ。それなのに「判らないから動けない」などという…甘えではなく、生きることそのものが判っていないというべきだ。生きる事が判らないという事は、今まで実は真実に生きて来ていないという意味だ。ヒトはまっすぐ進んで行けば良いのであって、失敗も怖さも全てはまっすぐの中の出来事でしかないのだ。




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