●平成29年2月号 |
白玉の滝での真冬の滝打たれと名を打ったイベントはおかげさまで無事終わった。それなりに時間をかけて準備をして来ても必ず違った状況が起きる。自然が相手だからそれも大いにありで、神に祈る思いで終わるのを待つ。無事終わって良かった。 それにつけても、今年は写真撮影の方々のマナーが良かったように思えた。例年マナ―が悪くて邪魔をする写真撮影の一部の方々が、今年は幸いと言うか、雪がなく暖かくて絵にならないと思われたのか人が来なかったからのようだった。 写真撮影に限らずだが、何事も最後はその人の総合力になってしまうと思う。写真に素人なのだが、知識のなさを棚に挙げて、以下、色々と恐れずに言う事にする。 …良い写真を撮る人はシャッターチャンスを逃さない事だと思う。更には、これはと思う場面に出くわすと、瞬時にその場で撮るべき構図を頭に浮かべる事ができて、シャッターを押す術を持っておられる。シャッターチャンスを待っているから、そういう人はマナ―が良くなる。 今を選ぶ人はマナーが悪くなってしまう、常識が通じなくなる。自分の拘りだけを満たそうとして行動するからだ。今を選ぶ…それは写真撮影の一部の方々ばかりではない。ヒトは現実を選べない。選べないのは人間関係だけでなく全ての現象であると気づくべきだ。絶壁ででも生えている松がある、それに学ぶべきだ。 人生は自分が受け身でこそ成り立つ。これを御存じない人は現実をチョイスする。チョイスしているかどうかを知る事は自分の総合力を高めるかどうかと大きく関係している。不自然なものを良い技術で…って、できたとして何の意味があるのだろう。翻って見た場合、良い技術によって作られた便利に満ちた生活を手放さない私達とどう違うと言うのだろうか。 今を思い通りにしよう・思い通りにできる…は、大人としての未熟しか意味しない。大人とは巡り来た物事に心揺れながらも受け入れて行く覚悟を持てる人を言う。今を選んで得…は生きていない事を子供達に伝えられる大人であるべきだと思う。
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