(毎月発行の『連絡紙』より)


●平成29年2月号
 白玉の滝での真冬の滝打たれと名を打ったイベントはおかげさまで無事終わった。それなりに時間をかけて準備をして来ても必ず違った状況が起きる。自然が相手だからそれも大いにありで、神に祈る思いで終わるのを待つ。無事終わって良かった。
  それにつけても、今年は写真撮影の方々のマナーが良かったように思えた。例年マナ―が悪くて邪魔をする写真撮影の一部の方々が、今年は幸いと言うか、雪がなく暖かくて絵にならないと思われたのか人が来なかったからのようだった。
 写真撮影に限らずだが、何事も最後はその人の総合力になってしまうと思う。写真に素人なのだが、知識のなさを棚に挙げて、以下、色々と恐れずに言う事にする。
  …良い写真を撮る人はシャッターチャンスを逃さない事だと思う。更には、これはと思う場面に出くわすと、瞬時にその場で撮るべき構図を頭に浮かべる事ができて、シャッターを押す術を持っておられる。シャッターチャンスを待っているから、そういう人はマナ―が良くなる。
 対して、マナ―の悪い人は自分が想定した構図以外が浮かばないようだ。以前、滝の落水の跳ね返りが見事なダイアモンドのようになっているのに、それを踏みつけて撮影をしていた人がいた。跳ね水のダイアモンドは滅多にできないのに…である。
  自分の構図に嵌った時にシャッターを切るものにして被写体と接している…。だが、そんな好都合はあり得ない。自然や人が思いように成るわけがないのに、そういう構図にできると錯覚している。しかも人生経験を積んだはずの大人がである。厳しい言い方になるし他人の事を言えた義理ではないが、最後はその人の総合力であるのに、その総合力が上ッ面であったり、あらぬ方向に向かっていたりしている。それでは総合力もなにもあったものではない。…その偏った拘りがその人のマナーの悪さを作ってしまうのは確かだ。  写真は撮り手が受け身だから成り立つものである…と素人なりに思う。ピカソの日常を撮影したカメラマンは撮影を始めるずっと前から同居させてもらって、家族というか家具にみなされるようになってから撮影を始めたという。自然な事とはどういう事かを良く知っていたと言えよう。
  受け身だから自然なものが撮れる。構えていて撮るのはある意味「やらせ」を撮影していると言う事になる。撮り手の「我」が入り込む写真は真実から離れるし心を打たない、と私は思っている。その実、マナ―の悪いカメラマンの多くは「やらせ」を求めているとは思っていない。
  今を選ぶ人は、生き方のマナーなど意識にない。自分の拘りを持たす生活をしているのだからそうなる…。だからマナ―の意味が見えない。だから優れたシャッターチャンス(学びのチャンス)を見落とすのだ。写真撮影はともかく、優れたシャッターチャンス(学びのチャンス)は至る所にあって、それが人生で、自分を生き切るということだ。
  今を選ぶ人はマナーが悪くなってしまう、常識が通じなくなる。自分の拘りだけを満たそうとして行動するからだ。今を選ぶ…それは写真撮影の一部の方々ばかりではない。ヒトは現実を選べない。選べないのは人間関係だけでなく全ての現象であると気づくべきだ。絶壁ででも生えている松がある、それに学ぶべきだ。
  人生は自分が受け身でこそ成り立つ。これを御存じない人は現実をチョイスする。チョイスしているかどうかを知る事は自分の総合力を高めるかどうかと大きく関係している。不自然なものを良い技術で…って、できたとして何の意味があるのだろう。翻って見た場合、良い技術によって作られた便利に満ちた生活を手放さない私達とどう違うと言うのだろうか。
  今を思い通りにしよう・思い通りにできる…は、大人としての未熟しか意味しない。大人とは巡り来た物事に心揺れながらも受け入れて行く覚悟を持てる人を言う。今を選んで得…は生きていない事を子供達に伝えられる大人であるべきだと思う。




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