(毎月発行の『連絡紙』より)


●平成29年3月号
 新潟市の水族館のラッコの繁殖が望めない状況になっているという。 昨今の水族館の在り方を考えれば、それで当たり前だろう、と思う。
  生存の危機にあってこそどんな生物でもその「種」は続く…そういう原則のようなものがあるからだ。その生存原理が本能でもあり、逞しさでもある。その逞しい本能を伝えてこそ全ての種は生存し続けて行く大義を持つのである。
  多くの水族館は食糧確保の心配も過酷な天候の心配も、どちらもないように作られている。そんな過酷な刺激( ストレス)のない環境で育てられて来たラッコが正常である事は考えられない。水族館職員を悪く言う訳ではないが、ストレスのないようにして飼育が成立するようにしている。ラッコに限らず、危機があってこそ命の逞しい本能は継続されるし、だから生きて行けると言えるのだ。
  私どもの滝小屋の周りの笹藪は去年花が咲いて実を落とした。笹は60年に一度花が咲くと言うし、花が咲いて実を落としたら枯れると言う。滝小屋では笹の花を見たのが二回目だ。その時には確かに笹は激減した。
  そういうものの、滝小屋は今年で29年目だから、60年に一度の笹の花はこの場合間違いになる。だが、いずれにしても種が絶える前に子孫を残そうとするのは自然の姿と言えるのだ。
  昨秋は野菜が高値だった。種を撒くべき時に撒いているのに、それが育たないというものだった。日照時間や累積気温とかが大きく違ったから、種が目を出せなかったという。現代の野菜は食べる側の好都合の為だけで交配されている。美味しいとか強いとか言う遺伝子を選んで現代の野菜の種は生産され、しかもそれは本来の遺伝子ではないから、毎年遺伝子を交配させて作らねばならない種なのである。その為に長雨に負けないとか日照りに負けないとか言う逞しい種ではなくなってしまった。
  昨秋の野菜の不出来は図らずも弱い種の姿を露呈させてしまった事になる。野菜は肥料も水分も与えずぎりぎりまで苛められる過酷な環境下でこそ良い作物になると言う説がある。そうやって生まれた種は美味い不味いというヒトの都合とは別に、逞しい遺伝子を持っている。その逞しい種こそが地球が維持運営されるために必要とされる本来の種と言えるのだ。知らず知らずに私達は美味しい野菜を食べながら、実はあり得ない野菜を食べていた事になる。
  今までのラッコ・笹・野菜の例で、繁殖という言葉を生存とか種の存続という言葉に変えてみると、ヒトにも十分当てはまる事が判る。逞しさが失われたら生存とか種の存続は望めないのはヒトにこそあてはまる。  
  ヒトという種が50万年前から生き延びて来たのは、一重に逞しさの故であった。そしてどんな生物にも言える事だが、逞しさはストレスによってしか生まれない、という事が一番大事な事だ。ストレスにめげそうになっても受け入れて押し返す力を我々滝打たれでは「火事場の馬鹿力」と呼んでいる。
  栽培と生きるとは全く違う。同様に飼育される事と生きる事とは全く違うものである。これは私達人間にも言える事だ。がそれに気づくかどうかが肝要である。
  良い人になれば少しは楽に生きて行ける。だが良い人そのものも楽に生きる事もある意味、いや実際に「飼育」されていると言える。だが、その事に気づかないでいるヒトは多い。現代人はその気づきを不要にしているようでもある。何となくでも生きて不自由なく暮らせて何となく死んでゆける時代なのである。
 生命は脳幹部に宿る。その理由は脳幹が最初に生まれる細胞だからだ。脳幹の逞しさは概ね首の太さに比例する。そして逞しい人は首が太い。
  逞しさは環境を選べないから養われる。然るに現代は自ら好ましい環境を選び、作り…幸せと称している。 更にはそんな幸せが生きる事と同義に扱われて疑問に思わない。何となく幸せで何となく不満で何となく日を重ねて…ラッコと同じではないか。




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