(毎月発行の『連絡紙』より)


●平成29年4月号
 疲れたと言う人の殆どは精神の疲れでしかない。肉体の疲れは休めば治るものだ。ヒトの体は基本的に休めば治るようになっているからだ。実際に『それくらいで、疲れるのか』のレベルで「疲れた」の言葉が出てくる。そういう人は反射的に「疲れた」と言っていて、実はその割に疲れてもいないのだ。「疲れた」を言えない程疲れてもいないのに、そう言っている人が殆どである。つまり自分の主観で「疲れた」と言っているだけである。口癖として「疲れた」と言う人は恒常的に精神が迷っているから、とも言えよう。
  それで判る様にヒトの疲労には二種類がある。肉体の疲労と精神の疲労の二つという事であって、生理的にヒトは病気を含め休めばいずれ治るようにできているのだから、慢性的な疲れの正体は精神的なものと断言しても良かろう。
  石油ショック前の日本人の病気の殆どは『休めば治る』だった。つまり肉体的な疲労が殆どだった。筆者は教祖譲りの主義療法を高校に行きながら奉仕していたが、当時は百%治せた。オレは治療の天才、と思って良い程、実績を挙げられていた。
  ところが石油ショック後は『休んだところで治らない』が病気の主流となった。天才だと思っていた筆者は何も実績が上がらなくなった。
  『休んだところで治らない』病気の原因は精神の疲れだと、しばらくして気づいた。現代でもストレスと言いながらも、ストレスがどれほど悪質なものかを判らぬ医師も多い。ストレス性も肉体疲労も差のない治療をする。原因のストレスについては、治す気すらなくただ投薬で誤魔化す、としている医師は多い。
  しかし、精神の疲れは重症で、熟睡を重ねないと、その疲れは取れない。だがまた精神の疲れは、精神の疲労回復に必要不可欠な熟睡を妨げる。結局そのままでは熟睡出来ないから悪循環にはまってしまう。だが精神の疲れだから、価値観がしっかりして行けば、熟睡できるし、疲れないようになる…。
  つまり自分の価値観がしっかりして行けば精神は疲れなくなるのだ。
  自分の価値観がしっかりするという事は、主体性を以て生きる事を覚えねば不可能である。主体的に生きていればそれで済むのだ。そして主体的に生きるとは、させられる行動をしないという事でしかない。それはまた自ら学ぶという意味になる。更に言うと、自ら学ぶとは自ら失敗をするという事で、失敗する楽しさを知る事にもなるのである。
  失敗する楽しさとは、本来は寝れぬほど苦しいものなのだ。だが主体的に生きる様になると、失敗というものの苦しさが日常茶飯の事だと判って来る。つまり寝れぬ苦しさが日常茶飯の事だと判ることで、痛みの程度は以前と同じであっても、逃げようなどと思わなくなって行き、苦しさそのものが茶飯事であって、それが真実楽しさなのだと判ってくるのである。それまでの茶飯事から離れた楽しさなど存在しないし、仮に存在したとしても全く意味がない事に気づく。どれほどストレスが苦しくても生きる事そのものについて回っているのだから、苦痛でありつつも楽しさであると受け入れてしまえるのである。「楽しくなければモチベーションは上がらない」と説く人がいるが、それが如何に現実離れであって、説かれる人を馬鹿にしたものであるかを知るべきだ。
  精神の疲れは自分を大きく飛躍させるストレスである。もっと言えば、クリアすれば済むのだから大したストレスではないのだ。大したストレスでもないのに逃げようとすれば自らを死に至らしめるものとなる。クリアするものにすれば済むのだ。
  クリアする為には、主体的に生きる事だ。言われて動いたらアウトだ。させられているから疲れるのだ。
  自分の意思で動いて集中できてこそ生きている事になり心身が呼応する。ストレスに慣れたと意識できた時、「これが日常・普段」と思えるようになっている。その時にストレスは休めば治る疲れになっているし、ストレスから学び終えているのだ。




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