(毎月発行の『連絡紙』より)


●平成29年5月号
 ヒトは毒出しをしながら生きる。その毒出しを病気と呼んでいる。つまり病気は生きて行く際の生体反応と言える。その「毒出し=生きて行く反応」が出来なくなってヒトは死ぬ。多くは誤解していて、その誤解に気づかないが、人が死ぬのは病気ではないのだ。病気は毒出しの生体反応である、と言う事は病気は死んだら起きないと言う事なのである。
  例えば癌細胞に癌ウイルスは巣を組んでいるが、手術をして細胞を切除した途端、ウイルスは姿を消してしまう。そして新たな寄生先を見いだして巣食う…それが転移である。転移はするが寄生先のヒトを死なせない。人が死ねば癌細胞は増殖出来なくなり、癌ウィルスも死ぬからだ。ヒトが病気で死ぬとしたら毒として排泄出来ない物を取り込んだ時と大きな怪我だけなのだ。
  だが、どんなに丈夫で病気がなくてもヒトは必ず死ぬ。「老衰」で死ぬのである。逆に言えば、大病であっても治る人は治る、のだ。命は死と関係する。だが、病む事は生きている時だけのことで死とは関係しない。この事に留意しておくべきだ。
  「放おっておいた方が良いと思います」というドクターの言葉に「手術をお願いします」と言った看護師の家族があった。そして半年間、植物人間状態でいて、その人は死んだ。 家族の心痛を見ながら、何のための半年だったのか、半年の意義はどこにあったのか、と…友人として不可解な思いが強く残った。
  情を優先した結果で家族は手術を望んだ。だが半年間植物人間状態となって、友人は情けを優先したはずの家族にとって疫病神の存在となった。最後は家族の本音として「早く逝って欲しい」だった。そんな態度があからさまに見えた。悲しいがそれが友人の家族の現実だった。
  生きるとは、どんなに苦しくても自分を生き切る事でしかない。生き切れるように毒出し能力があるのだから、楽であれば良い…は解決とか治療とかとは全く関係しない事なのだ。苦しくても死ねないし、楽であっても死なねばならないようにヒトは出来ているのだ。
  毒出し=辛い、なのだ。毒出し能力があるから辛い症状を伴い、その辛さに悩まされる。その繰り返しで生体は逞しさを得て行き、毒出し能力が衰える事によって辛い症状が衰えて遂には感じなくなって枯れて息絶える…それが死ぬと言う事なのだ。
  生き切ろうとすることで逞しくなり自分らしさが磨かれて行く。好んで苦を求めても好んで楽を求めても、生き切る事とは繋がらない。生理の自然の流れで毒出しをするように出来ているのだから、流れを素直に受け入れるだけなのだ。それは昔は病む因縁、と言い表した。
  因縁を信じる事を滝打たれでは現実を受け入れるという表現をする。そこに生まれてくるのは、個人の尊厳である。個人の尊厳に心が行かぬ人は「楽であれば何でも良い」と思うようだ。楽であるとは自分の思い通りにする、と同じ意味にもなる。
  いずれにしても、巡り来た苦から逃げない事が生き切る事で、自然の姿であり、個人の尊厳を生んで行く。尊厳というものへの目線は命を使い切ることと同義である。「看取り」介護の大切さはここにある。
  周りの人と同じに生きる様にヒトはできていない。同じように人と同じに死ぬように出来てもいない。自分を生きるようにしか出来ていない。
  本人が望まないのに、周りの多くが情を優先して治療し、苦しませて逝かせる…。それは周りの人々が個人の尊厳を知ろうとしない日常を過ごしている事を意味していよう。厳しい言い方になるが、情を優先する人や拘りに曖昧な人は思いの達成による満足を人生だと思っている。そういう人は逝く人を苦しませて死なせてしまう。尊厳を以て死んでゆく…最後は穏やかに眠って行く…自然死とはそういう事のはずなのだ
  生きる死ぬは人それぞれである。 いずれにしても私達はしっかり生き切る事を意識していなければならない。自分の尊厳=生き方をしっかり見つめる必然がヒトにはあるのだ




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